あっという間に2012年になってしまった。今年ほど先の予定が見えない年は今までなかった。
それでも色々なものに手を出すことにはなると思うので、しばらくは好奇心のままに生きていこうと思う。(こんなことを言ったらある人に「若いなあ…」と言われた。20代の無鉄砲さはいつまで続くかな?)
卒論の提出も大学院のアプリケーションもすみ、無理なバイトをすっぱり辞めてすっかり生活に余裕ができた。新しいバイトも始めた。そろそろ新しい勉強を始めたい。英語の勉強もまた再開しようと思う。今は就活も公務員の勉強をするのにもなんだか気持ちが中途半端でしょうがない。大学院の結果が出るのが遅くて3月末なので、それまではモラトリアムを満喫することになるかもしれない。いや、なるんだろうなあ。自分はこの先何をして生きていくんだろう。
卒論が終わったことで、なんとなーく大学生活が終わったような気がしている。卒論はまさにこの大学生活4年間の総まとめになった。社会学への入り口、英語を基礎にハワイでの留学経験、そしてそれらをまとめる作業。4年間の全てがつながっている。沢山の人に助けていただいた。思っていた以上に、なんだかものすごく内容以上に身の詰まった思い入れのある一作となってしまった。
論全体にながれるテーマは「Who is Uchinanchu? (誰がうちなーんちゅ?)」である。これは先行文献としてかなりお世話になったウェスリー・ウエウンテンさんと、新垣誠さんによるダイアログにはじまる。三線が弾ける弾けない、美浜を知ってる知ってない、テビチは好きか、出身は、両親の出身はどこか…とどちらがより「うちなーんちゅらしい」かを争う滑稽な寸劇である。私の問題意識は、まさにここから始まった。私は三線が弾けないし、うちなーぐちもしゃべれない。だったらテレビに映る、ハワイや南米で三線を弾き民謡を歌う彼らの方が、よっぽどうちなーんちゅらしく見える。果たして、本当にそうなのだろうか。
実際ハワイに行ってみると、そこで見られる沖縄文化はとてもお祭り的であることがわかる。でも、人々は真剣に沖縄を学ぼうとしている。組織運営や継承や伝統へのこだわりだのごちゃごちゃはあるけど、みんな「オキナワ」という何かに関わることで、楽しそうにやっている。
そんなオキナワンやコミュニティのメンバーを見て、留学生は自身にうちなーんちゅらしさを問いかける。でも、一方でお祭り的なオキナワ文化にも疑問をもつ。「あれ?自分が知ってる沖縄はこれだけじゃない。もっと複雑で、もっとごたごただ。でも、彼らは確かに自分に足りない沖縄を知ってる。
対話は言葉ではない形で繰り返されている。
また、ハワイが沖縄出身の学生に与える影響も大きい。ハワイアン・ルネッサンス(ハワイの文化復興。ほとんどなくなりかけていたハワイの文化を、ハワイアンの人々は様々な活動によって取り戻していった。)の話は、うちなーぐちを喋れない、沖縄の文化を余り知らない、政治的な立場の低い沖縄にとって、ヒントをもたらすものであった。ハワイと沖縄は文化のみならず米軍基地、社会的地位、歴史、観光、経済など様々な面でまた沖縄と類似していることに気づくのだ。
そんなハワイやハワイの「オキナワ」を見てきた学生たちは、自身の中の「沖縄」を見つめ直し、今の自分と自分をとりまく「沖縄」についてどーにかこーにかもっと良い未来を目指してがんばっている。誰がうちなーんちゅかなんて何で決めるの?そんなことはわからないけれど、自分の信じるうちなーの未来に向かって、みんながんばっている。
簡単に言うと、こんな話である。
ハワイの「オキナワ」は世界中に散らばる「オキナワ」のひとかけらに過ぎないし、それも日々変わっていく。ただ、これまでに、ハワイで、ハワイのオキナワンの方々と出会い、今頑張っている方々について、その人達の背景みたいなものを伝えたかった。「外に出ないと沖縄はわからない」なんて言うが、外で何を見てきたのか?外に行けない人にも伝えたかった。
以上私の卒論の内容をざっとまとめてみた。これは私の留学体験記でもある。同時に、ハワイに行った誰かの、沖縄の外に行っただれかの留学体験のエッセンスが詰まっている。
わかったことは、「私たち」は、何が本当かわからないけど共通のものとして「オキナワ」を紡ぎ続けているということ。今の世代の「ウチナーンチュ」たちが、何を選びとり何を伝えて、どんな沖縄を創り上げていくのか、ずっと見ていたいというのが、専ら最近の私の好奇心の所在だ。
ウチナーンチュ大会でできた事務局に関わりながら、常に問いかけている。世界のウチナーンチュはみんな同じじゃない。それぞれの土地にはそれぞれのウチナーンチュがいる。つながって、どうするか、なんで、つながるのか?何がうちなーで、何が自分をウチナーンチュたらしめるのか、これはいつでも自分が決めることなのだ。でも、他の「ウチナーンチュ」に出会ったら、そこでお互いの「オキナワ」の交換が始まり、その対話は永遠に続く。
とりあえず「誰がうちなーんちゅよ?」という問いかけに対して、私は「We are Okinawan」という答えを出しておいた。とりあえずの漠然とした答えだ。でも今はそう言うことしかできないと思う。オキナワのルーツがあって、そのエスニシティを自分のバックグラウンドとして選ぶのは自由。あとは、いかに自身をウチナーンチュたらしめているか、考えていく。自分との対話も終わらない。
これがとりあえずの結論である。
先が見えないのも、自分の選択と自分以外の人の選択が組み合わさってどうなるかわからないのも、何事も同じという話なのかもしれない。
ウチナーンチュ大会と沖縄を紡いでいくことについては、また改めて書こうと思う。
2012/01/20
2011/12/08
Pearl Harborのおもいで#3
さて、パールハーバーから70年とは言うものの、パールハーバーはまだ存在し続けています。
そこは、真珠湾攻撃から太平洋戦争までのアメリカの記憶を保存する土地であると同時に、現在も多数の軍艦が停泊する現役の軍港でもあるのです。一度でもそこを訪れたことのある人は、持ち込む荷物が限られていること、写真をとることが禁じられた橋などを覚えていることでしょう。アリゾナ記念館は今も流れ出る船体の油を見せてくれるように、各博物館が現在も進む技術や米軍人への誇りを主張するように、その全ては終わってしまった過去の記憶ではありません。
「リメンバー・パールハーバー」と言われるとき、未来の人々は何を思い出すようになるのでしょうか。
さて、もうひとつだけ思い出してほしいことがあります。
それはパールハーバーという土地の歴史です。
元々、パールハーバーは、「プウロア」(長い丘)もしくは「ワイ モミ」(真珠の水)と呼ばれ、魚を飼う沼や神殿のある土地でした。話はハワイ王国が米国との間で揺れる1876年まで遡ります。
その頃ハワイの砂糖プランテーションは、他の国が砂糖を自給できるようになっていたため、市民戦争で砂糖が不足しているアメリカを唯一のマーケットとしていました。そのアメリカへの税金の優遇処置と引換えにパールハーバーを譲る条約を結ぶようアメリカに迫られ、ハワイ内の政情はこの条約の受諾可否で揺れていました。これはハワイ占領への第一歩だという訴えもあったようです。
結局1876年9月に1886年までという条件付きでこの条約を受け入れたのですが、実はこの約束の中には、パールハーバーの借用は含まれていなかったようです。(後に書き換えられたと聞いています)
またこの内容は結局プランテーションの持ち主である白人(主にアメリカ人)オーナーの利益になるものでした。
この後力をつけ始めた財界の人々により、当時のカラカウア政権は、武力によって米国よりの新しい憲法にむりやりサインさせられ、アメリカの傀儡政権になってしまいました。それでも王は世界をめぐり王国の存在をアピールし、イオラニ宮殿をつくり、ハワイの作り、また太平洋の島々と協力体制を築こうとしました。しかし王は病にかかり、サンフランシスコで「休養」の途中で帰らぬ人となってしまいました。
これが1891年です。それを継いだ最後の女王リリウオカラニも王国存続のための努力はしましたが、結果はみなさんが知っているとおりです。
その間、パールハーバーは、物流の拠点になっていました。
1896年、アメリカはスペインと、フィリピンで戦っていました。
1896年、ハワイのアメリカ統合の条約が出され、沢山の反対署名が集まりそれは却下されました。
1898年、アメリカ議会で合同決議が通りました。これを契機にパールハーバーは軍用としても使用されるようになりました。
1900年、沖縄から移民が到着したその年、ハワイはアメリカの領地になりました。
この後プランテーションはどんどん土地を広げていきます。
そしてパールハーバー以外でも、オアフ島の25%の土地が軍事用施設としてアメリカへ接収されていきました。ダイアモンドヘッドは砦として利用され、トンネルが掘られました。他の島も然りであり、カウアイのモオモミは今でも米軍の軍事訓練施設です。第二次世界大戦からはカホオラウェ島がまるごと演習射撃の的として利用されました。
そして1941年の真珠湾攻撃です。
そして今もパールハーバーは、アメリカ軍の利用する現役の軍港です。
今年発行された「観光コースでないハワイ」によると、現在ハワイにある軍事施設は152箇所。その面積は、ハワイ諸島全体の5.7%、オアフでは22.4%を占めている」といいます。また、オアフの主要な道路はまるで各軍事施設をつなぐように作られているようにみえます。
繰り返しますが、全ては終わってしまった過去の記憶ではありません。
今も続く戦争や占領を維持する場所でもあります。
長々と書きましたが、これらのことが私の思い出す「パールハーバー」なのです。
*参考文献*
高橋真樹『観光コースでないハワイ』高文研、2011年
もう少しハワイについて知りたい方にオススメの一冊です。
そこは、真珠湾攻撃から太平洋戦争までのアメリカの記憶を保存する土地であると同時に、現在も多数の軍艦が停泊する現役の軍港でもあるのです。一度でもそこを訪れたことのある人は、持ち込む荷物が限られていること、写真をとることが禁じられた橋などを覚えていることでしょう。アリゾナ記念館は今も流れ出る船体の油を見せてくれるように、各博物館が現在も進む技術や米軍人への誇りを主張するように、その全ては終わってしまった過去の記憶ではありません。
「リメンバー・パールハーバー」と言われるとき、未来の人々は何を思い出すようになるのでしょうか。
さて、もうひとつだけ思い出してほしいことがあります。
それはパールハーバーという土地の歴史です。
その頃ハワイの砂糖プランテーションは、他の国が砂糖を自給できるようになっていたため、市民戦争で砂糖が不足しているアメリカを唯一のマーケットとしていました。そのアメリカへの税金の優遇処置と引換えにパールハーバーを譲る条約を結ぶようアメリカに迫られ、ハワイ内の政情はこの条約の受諾可否で揺れていました。これはハワイ占領への第一歩だという訴えもあったようです。
結局1876年9月に1886年までという条件付きでこの条約を受け入れたのですが、実はこの約束の中には、パールハーバーの借用は含まれていなかったようです。(後に書き換えられたと聞いています)
またこの内容は結局プランテーションの持ち主である白人(主にアメリカ人)オーナーの利益になるものでした。
この後力をつけ始めた財界の人々により、当時のカラカウア政権は、武力によって米国よりの新しい憲法にむりやりサインさせられ、アメリカの傀儡政権になってしまいました。それでも王は世界をめぐり王国の存在をアピールし、イオラニ宮殿をつくり、ハワイの作り、また太平洋の島々と協力体制を築こうとしました。しかし王は病にかかり、サンフランシスコで「休養」の途中で帰らぬ人となってしまいました。
これが1891年です。それを継いだ最後の女王リリウオカラニも王国存続のための努力はしましたが、結果はみなさんが知っているとおりです。
その間、パールハーバーは、物流の拠点になっていました。
1896年、アメリカはスペインと、フィリピンで戦っていました。
1896年、ハワイのアメリカ統合の条約が出され、沢山の反対署名が集まりそれは却下されました。
1898年、アメリカ議会で合同決議が通りました。これを契機にパールハーバーは軍用としても使用されるようになりました。
この後プランテーションはどんどん土地を広げていきます。
そしてパールハーバー以外でも、オアフ島の25%の土地が軍事用施設としてアメリカへ接収されていきました。ダイアモンドヘッドは砦として利用され、トンネルが掘られました。他の島も然りであり、カウアイのモオモミは今でも米軍の軍事訓練施設です。第二次世界大戦からはカホオラウェ島がまるごと演習射撃の的として利用されました。
そして1941年の真珠湾攻撃です。
そして今もパールハーバーは、アメリカ軍の利用する現役の軍港です。
今年発行された「観光コースでないハワイ」によると、現在ハワイにある軍事施設は152箇所。その面積は、ハワイ諸島全体の5.7%、オアフでは22.4%を占めている」といいます。また、オアフの主要な道路はまるで各軍事施設をつなぐように作られているようにみえます。
繰り返しますが、全ては終わってしまった過去の記憶ではありません。
今も続く戦争や占領を維持する場所でもあります。
長々と書きましたが、これらのことが私の思い出す「パールハーバー」なのです。
*参考文献*
高橋真樹『観光コースでないハワイ』高文研、2011年
もう少しハワイについて知りたい方にオススメの一冊です。
2011/12/07
Pearl Heaverのおもいで #2
私の二度目の真珠湾訪問は、2011年2月24日に行われた"After Dark in the Park- Celebrating the Nisei Legacy" という日系二世兵士の展示ができたこと、また彼らのエピソードを集めたDVDがで
きたことの記念イベントのようなものでした。
最初に来たときに工事していたのはこのブースと、アリゾナ記念館に入る前の映像を展示するシアターだったようです。
二世兵士に関する展示がある館の入り口は左の写真のようになっています。
イベントの内容は、二世兵士たちの戦争体験を、プロの語り部さんが公演するというものでした。
語られたのは、ハワイで生れ、しかし教育の関係で沖縄に戻り、沖縄に残り神風特攻隊に志願した兵士の話、開戦直前にハワイに戻り米軍に従事し、沖縄戦で住民に投降を呼びかけた兵士の話など。また第二次世界大戦下のヨーロッパで、難民に向けて大量にビザを発給した杉原千畝の話もありました。後方のスクリーンにはずっと当時の彼らの写真がスライドショーで表示されていました。
語り部さんがまた感情の表現のうまい方で、時には滑稽に、時には真剣に、時には痛々しくそれぞれのエピソードを表現してくださいました。ほぼ目の前にいた私は公演中ずっとちむわさわさーしっぱなし。色んな感情がつぎつぎと入ってきて、ちょっと疲れてしまいました。
エピソードの根底には、彼らがアメリカ人としていかに戦争に貢献したかというテーマが流れていたように思います。442部隊で活躍した話はもちろん、米軍への志願の動機は、「日本人」としての差別のなかでいかに自身が「アメリカ人」として貢献できるか、認められるのかを考えた結果、ということが協調されています。
彼らは、パールハーバーの文脈においては、差別という逆境の中で見事「アメリカ人」としての職務を果たした「ヒーロー」達なのです。これは展示の内容にも言えることだと思います。その意図は、おそらく彼らの名誉回復なのでしょう。彼らは言われているような敵性日本人ではない、立派に当時の敵国帝国ジャパンに果敢に立ち向かった英雄のひとりなのです。杉原千畝のエピソードも、ナチスからユダヤ人を救った存在としてまた敵性日本人のステレオタイプを覆す働きをなしているのかもしれません。
また、これらとは対照的に、神風特攻隊に志願した方はその内情を知らずなんとなくであった、というように表現されていたのが印象に残っています。(この演技は非常に滑稽な様子でした)
そして本人の語らない「体験談」の異様さとの葛藤。どこまで脚色されているのだろう?と疑問に思うような「演技」でもあったのですが、これらの話の元になった経験をした方々も会場にいらしていたので、おそらく誇張されてあるであろう表現には問題はないのでしょう。
というより、実際彼らは「アメリカ人」なのですし、このような説明のされかたはむしろ彼らにとっても名誉なのかもしれません。
講演後に何人かの二世の方々とお話をさせていただきました。
彼らは私が沖縄出身だと知ると、昔の自分の住んでいた地域や、ハワイで自身が組織した沖縄系人のグループのことについてなどお話してくださいました。このパフォーマンスを受けてのお話も、当時は本当に大変だったというような調子でお話されていました。最後に退室なさる際、奥様の手を引いて、「僕は妻を大事にするよ。だってアメリカ人だからね」と去って行かれたその言葉は、冗談と取ればよいのかどうか戸惑ってしまいました。
日系二世の話をする際、彼らの受けた教育によって彼らを分けることがあります。
ひとつは米国で生まれ、大日本帝国下の沖縄や日本で教育を受け、海外に帰った帰米二世、もうひとつは、日本学校に通っていたとしてもずっと米国で生活している二世です。
ちなみに、上に書いたように「自分はアメリカ人だから」とおっしゃっていた方は、ずっとハワイにいらした方です。
教育の違いが個人の人生や生きざまにどう影響をもたらすのか、二世について研究されている方々の気持ちが分かるような気がしました。
このイベントで披露されたパフォーマンスは、Treasure: Okinawan Memories of WWII」という名前でDVD化されているようです。どこから出ているかはわかりませんが、収益はHUOAの沖縄プラザ建設への資金になるようだったので、HUOAに問い合わせると手に入るかと思います。また、英語でよければHawaii Nisei Storyというサイトでも沢山のエピソードを読むことができます。
3度目に展示を見るために訪れた時もこれらの印象はかわらず同じでした。
二世兵士もまた、真珠湾の形作るアメリカの物語の中に収められています。
次の記事では、ハワイにとってのパールハーバーについて書きたいと思います。
きたことの記念イベントのようなものでした。
最初に来たときに工事していたのはこのブースと、アリゾナ記念館に入る前の映像を展示するシアターだったようです。
二世兵士に関する展示がある館の入り口は左の写真のようになっています。
イベントの内容は、二世兵士たちの戦争体験を、プロの語り部さんが公演するというものでした。
語られたのは、ハワイで生れ、しかし教育の関係で沖縄に戻り、沖縄に残り神風特攻隊に志願した兵士の話、開戦直前にハワイに戻り米軍に従事し、沖縄戦で住民に投降を呼びかけた兵士の話など。また第二次世界大戦下のヨーロッパで、難民に向けて大量にビザを発給した杉原千畝の話もありました。後方のスクリーンにはずっと当時の彼らの写真がスライドショーで表示されていました。
エピソードの根底には、彼らがアメリカ人としていかに戦争に貢献したかというテーマが流れていたように思います。442部隊で活躍した話はもちろん、米軍への志願の動機は、「日本人」としての差別のなかでいかに自身が「アメリカ人」として貢献できるか、認められるのかを考えた結果、ということが協調されています。
彼らは、パールハーバーの文脈においては、差別という逆境の中で見事「アメリカ人」としての職務を果たした「ヒーロー」達なのです。これは展示の内容にも言えることだと思います。その意図は、おそらく彼らの名誉回復なのでしょう。彼らは言われているような敵性日本人ではない、立派に当時の敵国帝国ジャパンに果敢に立ち向かった英雄のひとりなのです。杉原千畝のエピソードも、ナチスからユダヤ人を救った存在としてまた敵性日本人のステレオタイプを覆す働きをなしているのかもしれません。
また、これらとは対照的に、神風特攻隊に志願した方はその内情を知らずなんとなくであった、というように表現されていたのが印象に残っています。(この演技は非常に滑稽な様子でした)
そして本人の語らない「体験談」の異様さとの葛藤。どこまで脚色されているのだろう?と疑問に思うような「演技」でもあったのですが、これらの話の元になった経験をした方々も会場にいらしていたので、おそらく誇張されてあるであろう表現には問題はないのでしょう。
というより、実際彼らは「アメリカ人」なのですし、このような説明のされかたはむしろ彼らにとっても名誉なのかもしれません。
| 帰りに寄ったパールシティにある 創作沖縄料理店のあんだぎー。 中にはソーキが入っていた。 うーん、テイストオブハワイのオキナワ |
講演後に何人かの二世の方々とお話をさせていただきました。
彼らは私が沖縄出身だと知ると、昔の自分の住んでいた地域や、ハワイで自身が組織した沖縄系人のグループのことについてなどお話してくださいました。このパフォーマンスを受けてのお話も、当時は本当に大変だったというような調子でお話されていました。最後に退室なさる際、奥様の手を引いて、「僕は妻を大事にするよ。だってアメリカ人だからね」と去って行かれたその言葉は、冗談と取ればよいのかどうか戸惑ってしまいました。
日系二世の話をする際、彼らの受けた教育によって彼らを分けることがあります。
ひとつは米国で生まれ、大日本帝国下の沖縄や日本で教育を受け、海外に帰った帰米二世、もうひとつは、日本学校に通っていたとしてもずっと米国で生活している二世です。
ちなみに、上に書いたように「自分はアメリカ人だから」とおっしゃっていた方は、ずっとハワイにいらした方です。
教育の違いが個人の人生や生きざまにどう影響をもたらすのか、二世について研究されている方々の気持ちが分かるような気がしました。
このイベントで披露されたパフォーマンスは、Treasure: Okinawan Memories of WWII」という名前でDVD化されているようです。どこから出ているかはわかりませんが、収益はHUOAの沖縄プラザ建設への資金になるようだったので、HUOAに問い合わせると手に入るかと思います。また、英語でよければHawaii Nisei Storyというサイトでも沢山のエピソードを読むことができます。
3度目に展示を見るために訪れた時もこれらの印象はかわらず同じでした。
二世兵士もまた、真珠湾の形作るアメリカの物語の中に収められています。
次の記事では、ハワイにとってのパールハーバーについて書きたいと思います。
Pearl Heaverのおもいで #1
7日沖縄タイムス朝刊の記事
[真珠湾70年 和解の千羽鶴 県系人寄贈]http://j.mp/v9F3eN
アリゾナ記念館に、沖縄系の方々が中心に千羽鶴が送られたそうです。記事に出てくるシャーリーさんはパールハーバーの資料館に日系二世兵士の展示を作った方でもあります。
きょうで真珠湾攻撃から70年だそうです。
真珠湾には、三回行きました。
1回目は友達と一緒に、どんなものか見てみたくて。
2回目は日系二世兵士の展示ができた記念のイベントに誘われて。
3回目はその展示をちゃんと見るために。
真珠湾は、唯一私がハワイの中で強固な「アメリカ」の存在を感じたところでした。
そこはまさしく兵士たちへの哀愁と国への誇りが上手く噛み合わされ演出した領域です。
沈没したアリゾナの上に発つモニュメントに行く前にまず、ビデオを鑑賞しその攻撃と犠牲の様子、歴史を知ることとなります。その後、暗い映写室からまぶしく静かな乗船場へと静かに案内されます。
沈没した戦艦アリゾナの真上にたつアリゾナ記念館では、未だ船体から流れ出る油を見ることができ、その連ねられた名前の多さに圧倒されます。日本人が訪ねて多少辟易するのは、ここで感じる些かの加害者意識からなのでしょうか。
アリゾナ記念館まではチケットをとれば無料で行くことができます。この前に建っている2011年2月にリニューアルした資料館も無料で観覧でき、この中に日系二世兵士の展示も設置されています。
他に潜水艦ボウフィン、降伏文書の調印が行われたミズーリとその船内、展示を見ることができます。
パシフィック・アビエーション・ミュージアムという飛行機に特化したアミューズメント的印象を受ける館もあります。
私の場合、1回目は潜水艦ボウフィンとミズーリまで行ってみました。
どちらも当時の船員たちの暮らしの様子などが再現されています。
またボウフィンは船体の目の前、ミズーリは艦内に資料館があり、その歴史などを知ることができます。
ミズーリは各所に案内役の方がいるので質問に答えてくれ、またツアー客への説明を盗み聞きすることもできます。
どちらも沖縄戦でも「活躍」した館です。ボウフィンの船体には、彼(彼女?)が沈めた日本の船の数が日の丸の数で誇らしげに表されています。また資料館では同じように沈めた船の数を国旗で表した旗がありました。彼らの戦果の証なんですね。
ミズーリは激戦のさなか応援として沖縄に寄ったのち神戸や東京へ向かい降伏文書の調印式を行った経緯を知りました。
かつて艦砲射撃の一部だった船が、日本との戦争集結の地となり、その船内に私がいる、ととても妙な気持ちになりました。
ボウフィン博物館の展示の後半は、いかに現在の潜水技術が進んでいるのかの説明でした。
そこで私の目を捉えたのは「しんかい2000」です。深海の様々な事象を研究することに活躍している船で、確かに最先端の技術であることは確かでしょう。しかし日本の現代の技術がこのような文脈で、しかも展示の一番最後に置かれていることは衝撃的でした。
案外この話は長くなりそうです。
2回目と「真珠湾」自体の話を、また分けて書いていこうと思います。
[真珠湾70年 和解の千羽鶴 県系人寄贈]http://j.mp/v9F3eN
アリゾナ記念館に、沖縄系の方々が中心に千羽鶴が送られたそうです。記事に出てくるシャーリーさんはパールハーバーの資料館に日系二世兵士の展示を作った方でもあります。
真珠湾には、三回行きました。
1回目は友達と一緒に、どんなものか見てみたくて。
2回目は日系二世兵士の展示ができた記念のイベントに誘われて。
3回目はその展示をちゃんと見るために。
真珠湾は、唯一私がハワイの中で強固な「アメリカ」の存在を感じたところでした。
そこはまさしく兵士たちへの哀愁と国への誇りが上手く噛み合わされ演出した領域です。
沈没したアリゾナの上に発つモニュメントに行く前にまず、ビデオを鑑賞しその攻撃と犠牲の様子、歴史を知ることとなります。その後、暗い映写室からまぶしく静かな乗船場へと静かに案内されます。
沈没した戦艦アリゾナの真上にたつアリゾナ記念館では、未だ船体から流れ出る油を見ることができ、その連ねられた名前の多さに圧倒されます。日本人が訪ねて多少辟易するのは、ここで感じる些かの加害者意識からなのでしょうか。
アリゾナ記念館まではチケットをとれば無料で行くことができます。この前に建っている2011年2月にリニューアルした資料館も無料で観覧でき、この中に日系二世兵士の展示も設置されています。
他に潜水艦ボウフィン、降伏文書の調印が行われたミズーリとその船内、展示を見ることができます。
パシフィック・アビエーション・ミュージアムという飛行機に特化したアミューズメント的印象を受ける館もあります。
私の場合、1回目は潜水艦ボウフィンとミズーリまで行ってみました。
どちらも当時の船員たちの暮らしの様子などが再現されています。
またボウフィンは船体の目の前、ミズーリは艦内に資料館があり、その歴史などを知ることができます。
ミズーリは各所に案内役の方がいるので質問に答えてくれ、またツアー客への説明を盗み聞きすることもできます。
ミズーリは激戦のさなか応援として沖縄に寄ったのち神戸や東京へ向かい降伏文書の調印式を行った経緯を知りました。
かつて艦砲射撃の一部だった船が、日本との戦争集結の地となり、その船内に私がいる、ととても妙な気持ちになりました。
ボウフィン博物館の展示の後半は、いかに現在の潜水技術が進んでいるのかの説明でした。
そこで私の目を捉えたのは「しんかい2000」です。深海の様々な事象を研究することに活躍している船で、確かに最先端の技術であることは確かでしょう。しかし日本の現代の技術がこのような文脈で、しかも展示の一番最後に置かれていることは衝撃的でした。
案外この話は長くなりそうです。
2回目と「真珠湾」自体の話を、また分けて書いていこうと思います。
2011/10/27
Let it be
As a starter for write a long essays again, I just came up with the idea to write a blog.
What I am doing now is essays for application. Yes, to apply for graduate school of UH.
I've been keep saying that I want to make my study more practical. That might be a great frustration every humanity major student confront with. Yet since I could conclude my original research question in the field of sociology and ethnic studies, so I assume I can move on to another phase. My challenge is make my research more practical and solve one more question or problem that I could not answer in this four years. That is about future, of Okinawa, and life of every people who is living in Okinawa.
Well, you may ask me how come I dwell on Okinawa that much. That is because I born and raised here, supported by many people or institutions, I have acknowledged many internal/external conflicts ,and I understand how those people related to me loves life in or land of Okinawa. There must be much better, more clever way to make a living in a way of adapted in community based on the lands and cultures. I desired to work toward it. Then what is that? I know this is such a big question!
I don't really think there is another golden resolution for all. Perhaps what I'm trying to do is meditate those people and let each knowledge link. I know many people has each various specialties, and I believe we can make situation better if those specialists would collaborate together. It requires mutual understanding, and communication.
These are why I try to study more. I study economics with historical backgrounds and relationship with politics to understand how current situation has shaped. I study plannings to make it practical in the future with perspectives with community and cultural lifestyle. Through these studies, I want to be a person who can explain why we have such difficulties and clear the causes, handle knowledge from various aspects, share and lead a reasonable resolution.
What I am doing now is essays for application. Yes, to apply for graduate school of UH.
I've been keep saying that I want to make my study more practical. That might be a great frustration every humanity major student confront with. Yet since I could conclude my original research question in the field of sociology and ethnic studies, so I assume I can move on to another phase. My challenge is make my research more practical and solve one more question or problem that I could not answer in this four years. That is about future, of Okinawa, and life of every people who is living in Okinawa.
Well, you may ask me how come I dwell on Okinawa that much. That is because I born and raised here, supported by many people or institutions, I have acknowledged many internal/external conflicts ,and I understand how those people related to me loves life in or land of Okinawa. There must be much better, more clever way to make a living in a way of adapted in community based on the lands and cultures. I desired to work toward it. Then what is that? I know this is such a big question!
I don't really think there is another golden resolution for all. Perhaps what I'm trying to do is meditate those people and let each knowledge link. I know many people has each various specialties, and I believe we can make situation better if those specialists would collaborate together. It requires mutual understanding, and communication.
These are why I try to study more. I study economics with historical backgrounds and relationship with politics to understand how current situation has shaped. I study plannings to make it practical in the future with perspectives with community and cultural lifestyle. Through these studies, I want to be a person who can explain why we have such difficulties and clear the causes, handle knowledge from various aspects, share and lead a reasonable resolution.
2011/07/14
I don't know why
I don't know why but I'm feel like writhing now so I just decided to write something.
It's been almost 2months since I had back in Okinawa. I don't feel it's so long or short, there were so many things I have done in the past 2months, there has been several changes that I faced.
Now, I'm starting to write my thesis again...thinking about Okinawan Identity, and its creation or process of construction. In those great former studies, it can be found that so many hints and perspectives should be learned. Then I ask myself again, what was my purpose to write and show what I've seen and experienced in Hawai‘i? Well, right now, it's just for myself, myself to make my thoughts clear...and sum up my pleasure time in the other pacific island and so on. Surely, there were so many facts and interactions beyond what has been wrote in books. It would be my reality, my reality of Okinawan Identity, culture and community in Hawai‘i.
When I think about my near future, specifically after my graduation from this university, I always question myself that do I really want to continue those studies and researches. That's a tough question, but also important. I want to understand more, and I'm sure I wouldn't make it completely forever...as long as it would continue and keep changing. Yet, it doesn't necessarily in the academic field though. I don't really know if my study and interest is meaningful for someone else beside me, since I'm always just following my curiosity around me. Yes, it might be a source of studies but I could done something more...more substantial could I say?
I'm still pursuing my own interest, but not my life, I think I meant it more like 'living'. Life will continue somewhere else beyond my control. I have to eat, sleep and make my life by my own someday...the future not so far from now. I always postpone to think about it seriously, but at the same time, I know I cannot design it so specifically right now. Well, at least, I will think. (I'm always saying so too though!)
Okay, my thought seems going a bit far from the point. Only thing I do for now is just do my duty, is keep writing what I wanted to see and write, and graduate from uni. That is good try to keep writing in English too, since I don't have any opportunity to write. English, english, english, that's one more thing I got in Hawai‘i. I do try to get more chance to use it. I hope I could get back some sense of handle it in a real communication through dropping myself in a such situation. I hope I can make it in almost a month-long training camp with other students from Asia. It will start from orientating camp for those tutors tomorrow.
The world is pretty much what you create...so be creative, man.
It's been almost 2months since I had back in Okinawa. I don't feel it's so long or short, there were so many things I have done in the past 2months, there has been several changes that I faced.
Now, I'm starting to write my thesis again...thinking about Okinawan Identity, and its creation or process of construction. In those great former studies, it can be found that so many hints and perspectives should be learned. Then I ask myself again, what was my purpose to write and show what I've seen and experienced in Hawai‘i? Well, right now, it's just for myself, myself to make my thoughts clear...and sum up my pleasure time in the other pacific island and so on. Surely, there were so many facts and interactions beyond what has been wrote in books. It would be my reality, my reality of Okinawan Identity, culture and community in Hawai‘i.
When I think about my near future, specifically after my graduation from this university, I always question myself that do I really want to continue those studies and researches. That's a tough question, but also important. I want to understand more, and I'm sure I wouldn't make it completely forever...as long as it would continue and keep changing. Yet, it doesn't necessarily in the academic field though. I don't really know if my study and interest is meaningful for someone else beside me, since I'm always just following my curiosity around me. Yes, it might be a source of studies but I could done something more...more substantial could I say?
I'm still pursuing my own interest, but not my life, I think I meant it more like 'living'. Life will continue somewhere else beyond my control. I have to eat, sleep and make my life by my own someday...the future not so far from now. I always postpone to think about it seriously, but at the same time, I know I cannot design it so specifically right now. Well, at least, I will think. (I'm always saying so too though!)
Okay, my thought seems going a bit far from the point. Only thing I do for now is just do my duty, is keep writing what I wanted to see and write, and graduate from uni. That is good try to keep writing in English too, since I don't have any opportunity to write. English, english, english, that's one more thing I got in Hawai‘i. I do try to get more chance to use it. I hope I could get back some sense of handle it in a real communication through dropping myself in a such situation. I hope I can make it in almost a month-long training camp with other students from Asia. It will start from orientating camp for those tutors tomorrow.
The world is pretty much what you create...so be creative, man.
2011/06/27
1円玉のことを考えてる。
オーストラリアには1セントコインがない。
会計ででた1セント単位の端数やお釣りは四捨五入される。
損をしたと思うだろうか?それとも煩わしさがなくなってよいと考えるだろうか?
いま、1円玉のことを考えている。
以前なら財布に貯めるだけ貯めていたはずの1円玉を、最近はレジの目の前の募金箱に入れることが多い。
もちろん会計時には細かいお釣りのでないようできるだけ努力する。
しかし1円玉を次の会計の時に、と取っておくことはしなくなった。
このため私の財布の中は最近1円玉レスである。
1円をばかにするものは1円に泣く
とは有名な金銭感覚にまつわる言葉だ。
いや、私は別に1円の価値を忘れたわけではない。
だからこそ細かいお釣りを避けるのだ。
新しい1円玉を産まないように。
あるいは、
どうせ後々1円玉で膨れた財布がいやになり、
家で貯金箱に入れるのである。
そしてその後買い物に行き、1円玉がなくまた新たに1円玉をこさえて帰る。
その一円も、塵も積もれば山となりいずれは結構な貯金になるかもしれない。
しかしそれでも今、目の前にある1円玉は1円の価値しかない。
いや、1円の価値がある。少なくとも、今は。
私は1円玉のもつ1円の価値を信じている。
そこに集まった小銭全ての価値を信じている。
そして私は募金箱にいれる。
店員から新しい1円玉を受け取る前に、財布の中の1円玉を探す。
そしてまとめて募金箱にいれる。
少なくともレジのそばに募金箱があるかぎり。
まだ1円玉のことを考えている。
私が手放した1円玉のその後を考えている。
会計ででた1セント単位の端数やお釣りは四捨五入される。
損をしたと思うだろうか?それとも煩わしさがなくなってよいと考えるだろうか?
いま、1円玉のことを考えている。
以前なら財布に貯めるだけ貯めていたはずの1円玉を、最近はレジの目の前の募金箱に入れることが多い。
もちろん会計時には細かいお釣りのでないようできるだけ努力する。
しかし1円玉を次の会計の時に、と取っておくことはしなくなった。
このため私の財布の中は最近1円玉レスである。
1円をばかにするものは1円に泣く
とは有名な金銭感覚にまつわる言葉だ。
ハワイから沖縄に帰ってきて約1ヶ月、お金に対する感覚がぼんやりとしてきた。
まずはクレジットカードを使っていたためドル円レート為替脳で「円ならいくらくらい」という感覚があるため。
次に「必要なのはいずれ買う、いずれ買うなら同じお金」という考えのもと、先ず予算を立てるようになり、「予算内であれば自由にお金を使ってもよいとする」、という自分ルールを実行していたこと。
私の金銭感覚は、1円がどうでもよくなるほど麻痺してきたのだろうか?
いや、私は別に1円の価値を忘れたわけではない。
だからこそ細かいお釣りを避けるのだ。
新しい1円玉を産まないように。
あるいは、
どうせ後々1円玉で膨れた財布がいやになり、
家で貯金箱に入れるのである。
そしてその後買い物に行き、1円玉がなくまた新たに1円玉をこさえて帰る。
その一円も、塵も積もれば山となりいずれは結構な貯金になるかもしれない。
しかしそれでも今、目の前にある1円玉は1円の価値しかない。
いや、1円の価値がある。少なくとも、今は。
私は1円玉のもつ1円の価値を信じている。
そこに集まった小銭全ての価値を信じている。
そして私は募金箱にいれる。
店員から新しい1円玉を受け取る前に、財布の中の1円玉を探す。
そしてまとめて募金箱にいれる。
少なくともレジのそばに募金箱があるかぎり。
まだ1円玉のことを考えている。
私が手放した1円玉のその後を考えている。
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