2014/11/02

大学と職業と学歴とその解釈と意味

8月に投稿しようとしていた記事…
*********************************

気がつけば1年以上が過ぎていたりして、2014年ももう8月半ばに入ろうとしている。

一日中パソコンの前でデスクワークをしながら、学校、アカデミアと仕事の連続性についてぼんやりと考えてみる。ここの学生は結構メジャーを変えるし、学部生生活を長年送ることにさほど抵抗がない。まずそれは新卒一括採用制度がないからであろうし、卒業まで4年以上かかったことに対してしつこく追求されたりもしないからだ(短い時間での卒業を勧められて入るけれど)。もちろん学校卒業後の特に職歴ともならない期間に何をしていたかなど気にされることもない。自分のペースで学生生活を送りながらアルバイトやインターンなどで経験値を上げている。企業側も関連のある学部の学生に、奨学金と無/有給インターンの機会を与えて投資としている。つまり大学における教育の信用に対する投資である。

実際自分が選んだ専攻がその後の就職にきちんと影響すること、(その特定の)学位をもつということが意味を持つこと、それが企業に評価され、かつ教育及び人材に投資がなされることが重要なのである。学生も自分の未来の為に専攻を選ぶ。入学時にそれは決めなくてもよいので、色々な分野をかじってみてから、自身の興味と関心をもって選択する時間があり、後から変えること可能である。日本にもこんなシステムの大学はあるが、システムはここでは問題ではない。

時々耳にする「産学官連携」とはちょっと違う。企業は投資すると言ったが、何も研究内容までに口出しをしてくるわけではない。彼らはあくまで学生に機会を与えるのみである。もちろん学生は安い労働力として企業にとっては使い勝手が良いかもしれない。しかし学生はきちんとその職についてトレーニングされることが前提である。そしてインターンはそのまま学生の経験としてその後評価される。大学の専門課程でトレーニングされ、企業の中でトレーニングされる。大学に行き、その学位を取る意味がちゃんとある。日本のエンジニア系など実学の学生に対してこのような企業からのサポートはあるのだろうか。文系はちょっとむずかしいのかもしれないけど、例えばハワイアンの学生への援助、地元出身学生への援助など、それでも特定の価値を重んずる企業および団体からのサポートはある。

日本の大学は入るまでが大変で、アメリカの大学は入ってからが大変、と聞いたことがある。これは実際本当だと思ったし、大学の価値がまるで違うということを表している。日本もアメリカも結構な学歴社会だと思うが、その大学に入ったことが評価されるか、その大学で学業をやり遂げたことが評価されるかは大きな違いだ。加えて、アカデミア以外の場所においても、学位が重要視されるのは、アメリカの方ではなかろうか。「○○職に就くには最低でも修士号が必要」なんて日本で聞いたことがまだない。

昨日タコライスを食べながら、ルームメイトが韓国の教育事情について少し教えてくれた。韓国でも同じく(有名)大学に入るまでが大変であり、その後ももちろん勉強はするのだが、学位はとりあえず取っておくもので、就職のためにはGREやTOEFLなどの他の資格等の取得にエネルギーをそそがねばならないらしい(特に就職後英語を使う機会がなかろうと)。大学とその後のつながりがここでもずれている。

もし大学教育がもう少し機能していて、プロフェッショナルとしてのトレーニングとして社会に受け入れられるのなら、社会のあちこちに本当にその道に通じた人が働けるのになあ、と思うのである。
********************************************

とここまで書いたのはいいけれど、これはあくまでも研究機関としての大学を前提としていて、大学が職業訓練学校になれば良いという思いで書いたわけではない。
学術が実際の社会に貢献できる体制、そのパイプがつながっていて、考える方(研究)と実践する方の行き来が簡単にできるような状態を想定していたものである。たとえば、社会人が大学(院)に帰ってきて学位を取ることは、キャリアアップの一つの道である。学位をとった後は、管理職的なポジションにつきやすくなる。また、異なった分野に挑戦することで、キャリアの方向転換および発展も可能である。最近はMBA等日本でもよく聞くようになったと思うが、こういう意味で学歴・’学位が評価されるのは、研究の価値をキャリアにおいても認められるからである。

考える人がいてこそ新しいアイデアが生まれて、そんな人が社会を動かす地位につけるからこそ、研究は活かせる道があるのになあと、最近の日本の大学政策の方針を見ながらまた考えていた。

0 件のコメント:

コメントを投稿