2016/06/09

ゲンロンカフェ沖縄出張版2:政治の夜「琉球独立論は何を夢見るか」

 先日、ゲンロンカフェ沖縄出張版2:政治の夜「琉球独立論は何を夢見るか」(2016年5月27日)を見てきました。
 長いことTwitterで津田さんをフォローしており、前回の県議選でも彼のウェブメディアで特集が組まれるなどしていたこと、ハワイ大学の先輩である親川さんが登壇し「琉球独立論」について対談するということで、どんな議論になるのかとても楽しみに参加しました。

 期待していたのは、彼の主宰ということは、若い、特にインターネットから情報を得る世代へアプローチするようなイベントになるであろうということ。琉球独立論が公の場で、日本全体を含むコミュニティの中で議論されるイベントは初めてみたことから、日本の文脈の中で独立論がどう捉えられ解釈されるのかということ。沖縄から親川さんが登壇されるということで、おそらく身の詰まった議論になるであろうということです。彼女は脱植民地化という観点から独立の必要性を訴えている方で、ネット上のタフな議論にも粘り強く答えていらっしゃる方です。

 さて、蓋を開けてみると、論客であるはずの東さんは前半ずっと黙りこくっているし、親川さんがずっと説明していることがどれだけ伝わっているのかわからないし、会場にはただならぬ緊張感が流れているし…はたして議論が深まったのか、それとも思考のループが続いただけなのか、やっぱりよくわからない、という感じになってしまっていました。

 あの場で何が起こっていたのか、イベントのあとでも色々考え続け、考えが整理できるまで時間がかかりました。ハワイ大学の先輩である親川志奈子さんに送ったイベントの感想を、Open Letterのような感じでブログに残しておきたいと思います。もしイベントに参加された方がいるのであれば、感想や、私の感想に対する感想を聞かせていただけるとありがたいなと思います

 長いですが、以下 親川さんに送った感想です。

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しなこさん、

先日はホームなはずなのにアウェーなセッティングの中での長丁場、本当にお疲れ様でございました。でもあの場に登場してくれたのが親川さんで本当に良かったと感じる場面がたくさんありました。

 東さんが前半ずっと黙りこむという議論にならない場面が延々と続きましたが、そのブレイクスルーは、このイベントに期待していたものが違う、ということに気づいた瞬間でしたね。あの人は、言っていたように「自分は勉強不足だから」黙っていたのではなく、一向に自分が期待する「独立論」の詳細が聞けなかったために発言ができなかったのではないかと思います。(本当に勉強していないのであれば、「自分は誰のどの本も読んだし、どれも読んだし」みたいな発言はしなかったのでは。しかし、今思うと「自分は独立論が何を議論しているかを知らないので、その一端が聞けるまでは何も話せない」という態度だったのかもしれません。)

 ここで明らかになったのは、主催側やオーディエンスの「独立論」に対する当事者性のなさだったのではないでしょうか。かれらは、「さて独立論とやらを唱えている人がいる、いっちょ聞いてみるか」くらいの気持ちだったのでしょう。しかし話を聞いているうちに明らかになったのは、そこに自分自身も間接的であれ関わっているということでした。それはしなこさんが丁寧に沖縄に独立論が必要な背景やチェ・ゲバラになりたい日本人の態度などを指摘することで彼らに「うちあたい」させた部分であると思います。前半これにゆっくり時間を使えたのは逆に良かったのかもしれません。また、第三者(批判者)でいたかたったのに自分たちの責任をも問われるような形になったことは、彼らにとって居心地が悪かったことでしょう。

 伝わっていないメッセージもありました。それは日本人がまだまだ沖縄を植民者の視点で眼差しているということです。彼の日本人男性としてのポジションをはっきりさせた上でも自覚なしに繰り返していたこともあります。特にうちなーぐちを政治の場で大いに活用するなど、自らを意図的に異化せよ、という助言には苦笑するしかありませんでした。ここまで説明してなお、「当事者」たちへ、聞き手(抑圧者)である自分たちがわかりやすいような態度をとるように努力を求める、かつその文化を利用すべきであるというのは、その力関係を自らが反省することはないという態度の現れにしか聞こえませんでした。文化を自分たちのものとして取り戻すという点が脱植民地化のひとつのポイントであるはずですが、それが伝わっていないということは、まだまだ独立の必要性も伝わっていないということでしょうか。

 確かに、日本と沖縄では前提としているコンテクストが違うというのは、改めて気づくのに重要な点であったと思います。それを気づかせるために「当事者」が自らを戦略的に異化する必要があるかは別として、これからのコミュニケーションの際に気をつけるべきことのひとつであるなと感じました。これは実は日本と沖縄だけでなく、沖縄の中においても世代間の違いについても言えることなのではないかと考えました。基地があるのは当たり前、これまでどんな歴史があったかも知らない若い世代は、議論が起こっても、上の世代と違う反応をする(日本に近いような反応をする)ことでしょうし、実際そのようなことを目にすることも多くなってきたように思います。

 彼が暴力性をはらむ、と言っていたポジショナリティの確認ですが、これは私にとっては、コンテクストの違いを確認する上では有効だから行っていることだったという解釈です。脱植民地化というフレームを使って説明をしている以上、植民者-非植民者はどちらかを明らかにすることは前提として必要です。そのフレームを外し、ポジショナリティをあたかもないように振る舞うことは、「日本人だからあなたも同胞」と包摂し潜在する違いを覆い隠してしまうことと同じなのではないかと思います。
もしかしたら、議論の前提も違ったのかもしれません。沖縄側は今までの色々から違いを十分認識しており、ポジショナリティの違いによる立場や視点の違いを指摘するまでもなく知っており、それを前提に議論を始めてしまった。(脱植民地化までの文脈を説明しなかった。)日本側はそれに無自覚だったために、同じ前提から議論はできなかったのかもしれません。

 同じように、沖縄の内部においてアイデンティティの問題はネックになってくるだろうと感じました。これはオーディエンスの質問にいくつか見られたように、「自分はとくにうちなーんちゅとも、日本人でもないとも思っていない」「自分は沖縄でもあり、日本でもある、だから民族自決と言われても困る」みたいなことです。なぜ沖縄が非植民者の立ち位置に置かれており、そのどこが問題であるかを共有せずに独立を唱えると、あたかも民族ナショナリズムのそのままのように聞こえる危険性もあります。沖縄の中でも非植民者であるという文脈を共有していない、こういった方たちを独立論の議論は置き去りにしてしまう危険もあります。あたかも、自身が独立論の中で前提とされる「(文脈を共有する)沖縄」の一部として語られ、その多様性を無視され、共有されていない視点の中勝手に主体として含まれてしまうことによる不安を感じていることは、質問やコメントからすごく伝わったと思います。これは学会の中でもまだ議論されていることでもあるかと存じます。

 もう一つは、独立がゴールなのか、プロセスなのかという問題です。私の理解では、以下のようになります。これまで色々な問題があり、沖縄なりに日本の枠組みの中でどうにか解決できないものかと努力してきましたよね。それが復帰運動であり、条件闘争であり、県民大会や政治的な日本との交渉、ワシントン訪問などだったはずです。しかし結局私たちはその中で対等な議論はできず、結果、独立=自分たちで自分たちのことが決められるようになるはずだ、という結論に至り、その具体化のために学会がつくられるまでにも至りました。

 アイデンティティの問題も、プロセスなのかどうかという問題も、独立を議論することによって何を解決したいのか、ということをひとつひとつ明らかにすること(=文脈を共有すること)によって紐解いていけるのではないかと思います。例えば、基地問題について、これまでこんな方法で戦ってきました、でもだめでした、だから私たちは日本、アメリカと対等な政治的関係を築く必要がある。文化の問題について、日本の教育制度ではその多様性は確保されておらず、自分たちの言葉や歴史なども学ぶことができない、だから独自の教育制度を確保する必要があるのだ、などです。ひとつひとつを明らかにすることによって、自分たちに本来与えられるはずの権利や、解決できるはずの問題、そしてその方法の一つが独立の中にあるかどうか、などがわかってくるのではないかと思います。

 学ぶこと、考えさせられることの多いイベントでした。繰り返しになりますが、誰のためのどのような場か、ふんわりとした中で自分の主張を説明することはとても大変なことだったと存じます。大変お疲れ様でございました。粘り強い議論を見せていただいたこと、また様々な気づきをいただいたこと、本当にありがとうございました。

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*親川志奈子さんのTwitterはこちら

2015/02/22

グローカル:普遍と個への問い

留学への助成金を出して頂いていた機関へ報告書を提出した。
結構何を考えてきたか、学んできたのかを書いたので、ブログで共有しようと思う。

修士課程の2年間はクラスと実習が主であり、最後のまとめとして自分の研究テーマである程度の長さの論文を書いた。プロフェッショナルディグリーとして、むしろ職能のある人材を育てることが主なコースだったため、学術に偏ることなく実践もさせてもらい、とてもバランスよくどちらも学ばせていただいた。

都市・地域計画の理論・実践および実例(ケーススタディ)を通し、世界から地域単位における社会・経済活動と地域の人々の暮らしとの結びつきを包括的に学ぶことができた。また、具体的な事業に対する論理的な評価手法や、政策提言の方法についても習得した。

研究テーマは「沖縄型グローカル産業の試案」である。漠然としたテーマだが、「グローカル」とはなにか、ハワイではどのようにこのコンセプトと繋がるような都市計画やまちづくりがあるのか。その重要な点とは何かについてを学ぶ上で、常にこれは沖縄の文脈だとどうなるか、何をするべきか、ということを常に考えていた。沖縄の細かいケースについては今後むしろ実践で取り組む課題としたいが、最後に「沖縄21世紀ビジョン」のレビューをすることで、ビジョン作成の経験から学ぶような締めくくりとした。

さて、テーマにしていた「グローカル」という言葉について触れておきたい。一般には世界の普遍化(グローバリゼーション)と共に起きる地域化(ローカリゼーション)を組み合わせたもので、これらが同時に起こることを表したものである。一見止めようのない現象のようであるが、都市計画及び地域運営、経済発展の中でどのようにこの現象と付き合うか、いかに上手くこの現象と付き合っていけるのか、という疑問へのヒントを得られたことがこの2年間の大きな成果であろう。

この2年間を通して緊(ひし)と感じたことは、日本のまちづくりでよく言われる三要素、「若者、馬鹿者、よそ者」は、けして最適でないということである。ハワイのように文化や土地性を大切にする場所では、先人や年を召した知恵者(Kupunaと呼ばれ大変尊敬される)に学び、すべての世代が協力する。知恵や知識を大切にし、よく考慮した上で行動する。自身や地域の文化や土地の関わりを慎重に考え、この先この土地で自身や家族、そして子孫に何を残し、いかに生きたいのかを考える、といったプロセスのほうが重視される。ここで、地域のローカル性、独自性は正当性を持ち、かつ地域住民に無理のない形で維持される。

もちろん若い世代や行動力ある者、新しいアイデアを持ち込む者も大切であるが、前者の三要素に任せていてはその地域の独自性が迷子になってしまう可能性があるのだ。こちらの勢力はむしろグローバル的と言っていいかもしれない。例えば、情報通信技術を日常で使ったり、新しい世界的な文化に慣れ親しんだ若者や、もちろん地域外、海外からの視点、評価、経験談、方法論などである。こちらも地域が時代についていくためには必然的な要素だ。この現象は望まずとも進み、地域は自らを更新していかなければならない。しかしここで重要な事は、知恵を持った地域の人間が現在のグローバル的な価値観を検討し、その中でも地域の未来に必要な普遍的な価値を選びとることだ。

つまり言いたいのは、都市計画やまちづくりを「若者、馬鹿者、よそ者」に頼るな。グローバルで普遍的なものと、地域の価値を見出し判断する、賢く、経験から学べ、協働の方法を知るものと、協働のシステムこそが必要なのだ。ということである。(もちろんこの三者も重要であり、排除せよとは言っていない。)


例えば観光産業と文化との関わりである。訪問客はその土地でしか見られない独自性を楽しみにわざわざ足をのばす。そこに世界的水準では確かに品質のよいリゾートホテル郡やテーマパークがあったとしても、そこにその施設がある理由はなく、土地の魅力は伝わらない。そして、地域の人々にとっての伝統的な土地利用などを学ぶ機会も失われてしまう。これは地域住民にとっては文化の喪失でもある。選び取られた文化だけが残り、それが客に見せるだけの文化になってしまっても意味が無い。地域住民はその文化の所有者ではなくなり、客も生きていない文化を見る理由はなくなる。この例で行くと、むしろ地域住民の生活の中に文化が溶け込み、彼らが無理なく日常生活を営み、それに誇りをもっていることが文化に対する価値を挙げる。そもそも文化とは人々が所有するものであるからだ。そして、環境面ではバリアフリーや安全性、衛生面、交通利便性の充実などの普遍的な品質を上げることのほうが大切ではないだろうか。これらの品質向上の益者となるのは、訪問客だけではなく、地域全体である。

都市計画においては、地域と共同し彼らの生活を向上、維持しつつ、教育・訓練を受けたプロフェッショナルとして、新しい手法や技術を紹介し実現していくことが、グローカルのあり方である。ハワイでは、デザインと同じくらいプロセスの正当性が重視される。結果様々な葛藤も起こるが、計画を強行することはなく、葛藤に真摯に対応する。土地は一度手を入れてしまうと二度と元には戻らない。土地を変えると地域や人の暮らしが変わる。なにか行動を起こしてしまう前に、できるだけ可能なだけ未来を試行錯誤することが大事なのである。そのためにはプロフェッショナルとしての紛争解決能力、交渉力、市民参加の手法、議論を進める能力が不可欠である。もちろんこれらは都市計画以外にもさまざまな分野で必要な能力でもある。

最終研究主題とした「沖縄21世紀ビジョン」においては、住民協働の努力は見られた反面、ある程度方向付けが初期からされており、ビジョンとしてはスローガン的になれない程度だが十分具体的ではないという中途半端な形になっていた印象である。しかしこれは未来を考える議論を地域で巻き起こす良いきっかけである。この取組を参考とし、沖縄においては教育制度、市民社会や参加意識など、アメリカやハワイと比べまだ弱い点が多いことは課題であるが、できれば都市計画者を中心に、や地域をよく知る者と協働して、各市町村あるいはもっと小さい単位で地域の未来を作っていく習慣を築いていきたい。その際にグローバルとローカルのバランスを取り、よく考え協働するという姿勢と視点の転換を沖縄の未来への提案としたい。

2014/12/14

ハラスメントとジョニーとイノベーション

職場のハラスメント対策の講座に出るのをすっかり忘れてしまった…という時に、ふと、学部時代に経営関係のクラスを取ったことを思い出した。
組織変革論かという名前だったのだけど、組織を変革する気は全く無いような授業だった。

ストーリーテリングを手法として紹介していたのはとてもいいと思うが、その利用法がとくに組織の文化を変えるような例ではなかった。むしろ、組織のやりかたについてこない人々を「巻き込む」とかその流れに乗せていくための使い方をしていたと思う。

例えば、ある日は企業で「怒られない」新人社員の話が出た(教員からね)。最近の新人は怒られられてなく、批判されるとすぐへこみ、辞めていく。けしからぬ。。。そんな話だ。
おそらく某フードチェーンの新人研修か何かの話の流れだったので、私は「いや、それ別に力で押してくるほうが問題だろ」と思っていたのである。しかし次に彼の口から出たのは「怒られ方模擬授業」への提案だった。「私はやる気まんまんですよ、たまには学生を気持ちよく叱ってみたいですね」と。ええええ、それでいいのか。それでいいのか。そんな企業文化に慣れてしまうのでいいのか、そこ、組織で変革すべき点なのではないですか。それハラスメントですよ。

そんなことはその場ではすぐに言葉にできなかったけれど、とりあえず「えええ」とだけは感じていた。まわりの経営専攻の学生は結構乗り気であった。えええ、それでいいの。

経営専攻が仮に米国で言うビジネススクールだったとしたら、この専攻の学生たちはいずれビジネス界のマネジメントポジションにつくことを前提(希望)に教育を受けているわけである。そんな学生たちが今の組織文化に批判的でない限り、彼らはそのままその組織文化に沿うように訓練され、組織のいいように人を「組織変革」するために教育の成果を利用するのではないのか。
それでーいいのかーーー。私はいやである。

ストーリーテリングの手法で紹介された例は、氷が溶けていることに気づいたペンギンが仲間に移動するか生活習慣を変えるかだかの提案をするみたいな話だったはずである。ストーリーテリングの手法を学ぶ前に、まずそのペンギンのアイデア、氷の変化に気づく洞察力とそれを危険だとみなす判断力が必要なのである。そんな批判的思考がその場には欠けていたのだ。

だって、「それハラスメントじゃん」って言える人がいないと、その組織文化消えないですから。その状態を「ハラスメントですよ」って、名前を与えてあげる、説明のフレームワークを与えてあげることが、ストーリーテリングになるはずである。

そのクラスではやけにイノベーションイノベーションと聞いたような覚えがある。(もしかしたら私のステレオタイプかもしれないが)でも現状に問題意識を持たない人からはとくに新しいものはでてこないと思うんだよね。イノベーションだかジョナサンだかジョブスだかジョンだかが現れるのを待つ前に、そんな思考の訓練をした方がよっぽど組織変革に必要なんじゃないのー。

とりあえず、数年前の違和感をどうにか文章にできて今は満足である。あの経営専攻の学生たちは今何をしているんだろう。

2014/11/02

宮台真司が語る沖縄の生きる道「問題は基地反対の先にある」を読んで

宮台真司が語る沖縄の生きる道「問題は基地反対の先にある」を読んで
色々読みながら思うことがあるので、メモしてみる。時間に余裕のある方は、対応するインタビュー記事の箇所と一緒に読み進めるか、インタビュー記事を先に読むことをおすすめする。(リンクは一行目に貼ってあります。)

-沖縄がアイデンティティを取り戻した先に何があるのか-
「今日アイデンティティ・ベースの独立運動はありえない」=いわゆるナショナリズム=民族がその民族の国家を持つべきであるという考え、は今はありえない(現実的でない)という主張。
多民族化・多エスニック化が進んでいる中ではこの考えはちょっと古いのは確かにわかる。ひとつのアイデンティティが表に出ることで、そのアイデンティティに代表されない人々(離島や沖縄内での地方、移民、混血など)を無視することになるのもわかる。つまり、沖縄アイデンティティの主張は沖縄ナショナリズム(極端な例で言うと独立)と必ずしもダイレクトにつながっているものではない。確かに現実的にはそうであろうし、排他的な運動であってはいけないはずである。沖縄内アイデンティティは、それをツールとして何かの社会的問題を解決する手法にしかすぎないはずだ。宮台はこれについて彼の用語を使って説明するので、読み進める。

-翁長知事の<社会保守>について-
確かに沖縄がアイデンティティを持たないといけない理由は経済でも国境(道州制のこと?)のことでもない。ただし彼の<社会保守>的傾向が「観光価値を長期的に保全できる」という理由からだけではないはずである。これでは社会的保守の価値観を再び<経済保守>的な観点へ翻訳されてしまい、身も蓋もない。
「内地の<経済保守>と沖縄の<社会保守>が両立しない」というのは、沖縄が問題意識を持っているのは社会的問題であって、経済保証などでは簡単に解決しない。その経済的な解決案だけを提案してくる<経済保守>のアプローチでは、<社会保守>の考える問題は解決しない…ということなのではないか?

例えばしまくとぅば、観光価値のために言葉を守りたいのか?といえばそうではない。あれは私足しの文化であり財産である。文化を守りたいから普及運動があるのであって、消えていく言語に対して、補助金がもらえたとしても(経済的解決策)、文化は守れない。文化を守るには、教育や言語の使用・普及という社会的解決策が必要なのである。

-沖縄が経済的解決策を甘んじて受け入れてきた、という指摘からの質問-
これを宮台は、経済的解決策からの直接利益を受ける人々だけが周りにおり、反対の声を挙げづらい(もしくはそれで解決すると思いこんでいる)<社交>の範囲だけで交際関係が完結しているからであると説明する。

後半の<社会>の説明がちょっとクセモノである。<社会>がないとなぜ「広域ガバナンスができない」のだろうか。<社交>の世界からちょっと外に出て、<社会>から物事を見ると、その経済的解決策にまやかされていると気付き、<社会>のレベルでガバナンスができる、という論の展開かと思ったら、ちょっと違った。

2ページめ最後の段落で宮台は「<社会>の虚構を信じない沖縄が魅力的に見える」といいつつ、「オール沖縄」という<社会>をつくりあげている翁長氏の運動を「類例のチャンス」だという。

この後続く構造的問題についての説明も、沖縄が経済的解決策を甘んじて受け入れ、それが<社交>の範囲内でよしとされてきた、ということで説明がつくかと思う。この態度を撮り続けてきたことで、「カネで解決できる」という印象を与え続けてきてしまったわけですね。

-基地固定化への解決策-
1)住民投票-この日本の民主主義のシステムの中で、住民投票がいかに力を持つのが疑問である。さらに、<社交>のレベルにとどまる住民が必ずしも「反対」投票するとは限らない。ちなみにインタビューでは96年に一回行われたのみと言っているが、これは県民投票であり、97年にも「名護市における米軍のヘリポート基地建設の是非を問う市民投票」が行われている。(結果は反対52.6%であるが、法的拘束力はない。)以上から、住民投票が彼のいうほど有効かどうかは疑問である。

2)跡地利用計画についての熟議-跡地に対しての希望や未来を形作ることは、住民に基地のない地域のビジョンを現実感をもって所有させることができる。しかし、その利用計画はまた経済に囚われたものになるのではないか?という疑問がある。(例えば大型ショッピングセンター等、彼らがすぐに失うのは基地ではなく<経済保守>からのアメなのである。)

3)外交アクション-沖縄が外交できるのであればこれは理想的である。沖縄に外交権をください。そして日本側もその決定に従うようにしてください。しかし沖縄が「反対」したとして、その代替施設は一体どこへ行くのか。他の地域にも拒否権を与えないと不平等である。
「沖縄には日本政府の頭越しにアメリカ政府と交渉する力が今もある。」
とV 字滑走路を使う案に土建屋がアメリカと交渉して計画を変更した例を出している。これは事業の詳細の変更であって、そもそも基地をつくるかどうかのレベルの交渉の話ではない。

-大田県政の失敗に学ぶ-
上に書いたように住民投票への期待はちょっと疑問である。
跡地利用計画がコンサルへの丸投げであったという指摘には頷ける。このコンサルが計画作成にどのようなアプローチをとっていたかは別の話だけれど、住民の参加なしに計画へのオーナーシップ(所有感)は得られず、住民に基地返還をリアルなものとしての説得力に欠ける。
「国際都市形成構想」がフリートレードゾーンに固執し失敗したとあるが、結局これらの政策も、経済的解決策を求めてきたことが、他の経済的解決策(振興策)の前に倒れてしまった(そして新都心を作ってしまった)ことが背景あるのではとも考える。

-北谷開発結果への批判-
北谷の例が失敗例というのは半分賛成で半分疑問である。どこにでもある娯楽施設になってしまったのか?というと、そうでもないような気もするのだ。もはや沖縄のアイデンティティのひとかどとなってしまったアメリカ文化との融合が見て取れる。しかし内地からの出資で沖縄資本への経済的還元が小規模であることはたしかにそうだ。「本土並み化」で<社会保守>が不可能になる、という点については、半分賛成である。しかし、これは沖縄の新しいアイデンティティの一部のような気もしているのである。

-「沖縄が嫌いだ」という若者たち-
この指摘はおもしろい。<社会保守>がその社会的解決を求めて打ち出してきた解決策-しまくとくばや歴史-に対して嫌悪感を抱く若者たちについて。そりゃそうである。彼らにとってそんな要素は何一つ彼らのアイデンティティを形作らない。「年長世代と記憶を共有しない」とはまさにそのことである。戦争体験や基地からの社会問題だけに言えることではない。(基地関連の社会問題がもうないというわけではないと思うが、基地をポジティブに捉える若者は多い。)ただ、そんな社会を作り上げてしまったのは誰の責任だろうか。宮代の強調する<希望ベース>はではどのように沖縄にアプライするのだろうか。

-<ヤンキー>が地域社会をまわしている?-
私にはちょっとこの「ヤンキー的地方行政」が具体的にどのようなものかピンとこない。中央行政のツールとしての地域団体のこと?これについては彼の著作をよんだほうが文脈がとれそうなのでちょっと言及するのはやめておく。

中国からの脅威(論)が地方の右翼化・米国駐留の受け入れ容認を進めるか-
この質問に宮台は<教養の劣化>について質問する形で答えている、が正直なぜその議論がここで行われるかわかりにくい。あとの質問の流れからすると、おそらく容易に他国を敵視したりするのは教養不足でありそこからくる感情論である…ということであろうか。「反知性の時代」は個人的にも頷けることがたくさんあるが、この議論はだいぶ初めからそれた議題となってきた。

と、ここまでがインタビューに関する私の考察である。長くなってしまった。しかもこの記事続くんですね。

ここまで読んだ結果から言えば、<社会保守><経済保守>という言葉を使って、日本(政府)側、沖縄側の問題提起と解決のアプローチがずれていること、沖縄側が経済的解決策に甘んじてきたこと、そしてその結果「アイデンティティ形成」が難しく、世代間でずれのあるものになってしまったことを説明している。これらの点に関しては理解できる。
ただし、彼の上げている3つの解決策にはまだ疑問が残る。住民を含めた跡地利用の議論には大賛成だが、住民側の問題意識とアプローチが<経済保守>のそれと同じだと、第二・第三の新都心を作ってしまうにとどまるのではないだろうか。
彼が沖縄が<社会>をつくろうとしていることに対して積極的なのかどうかはまだわからない。しかし、ここで現れてきた翁長氏の<社会保守>的アプローチや、彼のつくろうとする「沖縄アイデンティティ」という<社会>がどのような解決策を持ち出してくるのか、その分析が見られるのかどうか次の記事に期待したい。ただし、繰り返すが、「沖縄アイデンティティ」を保つこと=観光価値の保持というのは、結局沖縄アイデンティティを経済の用語にすり替えてしまうことになるので、それは避けていただきたい。

大学と職業と学歴とその解釈と意味

8月に投稿しようとしていた記事…
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気がつけば1年以上が過ぎていたりして、2014年ももう8月半ばに入ろうとしている。

一日中パソコンの前でデスクワークをしながら、学校、アカデミアと仕事の連続性についてぼんやりと考えてみる。ここの学生は結構メジャーを変えるし、学部生生活を長年送ることにさほど抵抗がない。まずそれは新卒一括採用制度がないからであろうし、卒業まで4年以上かかったことに対してしつこく追求されたりもしないからだ(短い時間での卒業を勧められて入るけれど)。もちろん学校卒業後の特に職歴ともならない期間に何をしていたかなど気にされることもない。自分のペースで学生生活を送りながらアルバイトやインターンなどで経験値を上げている。企業側も関連のある学部の学生に、奨学金と無/有給インターンの機会を与えて投資としている。つまり大学における教育の信用に対する投資である。

実際自分が選んだ専攻がその後の就職にきちんと影響すること、(その特定の)学位をもつということが意味を持つこと、それが企業に評価され、かつ教育及び人材に投資がなされることが重要なのである。学生も自分の未来の為に専攻を選ぶ。入学時にそれは決めなくてもよいので、色々な分野をかじってみてから、自身の興味と関心をもって選択する時間があり、後から変えること可能である。日本にもこんなシステムの大学はあるが、システムはここでは問題ではない。

時々耳にする「産学官連携」とはちょっと違う。企業は投資すると言ったが、何も研究内容までに口出しをしてくるわけではない。彼らはあくまで学生に機会を与えるのみである。もちろん学生は安い労働力として企業にとっては使い勝手が良いかもしれない。しかし学生はきちんとその職についてトレーニングされることが前提である。そしてインターンはそのまま学生の経験としてその後評価される。大学の専門課程でトレーニングされ、企業の中でトレーニングされる。大学に行き、その学位を取る意味がちゃんとある。日本のエンジニア系など実学の学生に対してこのような企業からのサポートはあるのだろうか。文系はちょっとむずかしいのかもしれないけど、例えばハワイアンの学生への援助、地元出身学生への援助など、それでも特定の価値を重んずる企業および団体からのサポートはある。

日本の大学は入るまでが大変で、アメリカの大学は入ってからが大変、と聞いたことがある。これは実際本当だと思ったし、大学の価値がまるで違うということを表している。日本もアメリカも結構な学歴社会だと思うが、その大学に入ったことが評価されるか、その大学で学業をやり遂げたことが評価されるかは大きな違いだ。加えて、アカデミア以外の場所においても、学位が重要視されるのは、アメリカの方ではなかろうか。「○○職に就くには最低でも修士号が必要」なんて日本で聞いたことがまだない。

昨日タコライスを食べながら、ルームメイトが韓国の教育事情について少し教えてくれた。韓国でも同じく(有名)大学に入るまでが大変であり、その後ももちろん勉強はするのだが、学位はとりあえず取っておくもので、就職のためにはGREやTOEFLなどの他の資格等の取得にエネルギーをそそがねばならないらしい(特に就職後英語を使う機会がなかろうと)。大学とその後のつながりがここでもずれている。

もし大学教育がもう少し機能していて、プロフェッショナルとしてのトレーニングとして社会に受け入れられるのなら、社会のあちこちに本当にその道に通じた人が働けるのになあ、と思うのである。
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とここまで書いたのはいいけれど、これはあくまでも研究機関としての大学を前提としていて、大学が職業訓練学校になれば良いという思いで書いたわけではない。
学術が実際の社会に貢献できる体制、そのパイプがつながっていて、考える方(研究)と実践する方の行き来が簡単にできるような状態を想定していたものである。たとえば、社会人が大学(院)に帰ってきて学位を取ることは、キャリアアップの一つの道である。学位をとった後は、管理職的なポジションにつきやすくなる。また、異なった分野に挑戦することで、キャリアの方向転換および発展も可能である。最近はMBA等日本でもよく聞くようになったと思うが、こういう意味で学歴・’学位が評価されるのは、研究の価値をキャリアにおいても認められるからである。

考える人がいてこそ新しいアイデアが生まれて、そんな人が社会を動かす地位につけるからこそ、研究は活かせる道があるのになあと、最近の日本の大学政策の方針を見ながらまた考えていた。

2013/04/06

Lazy Saturday

I know I need to write my essay rather than a blog post. Essay must have been far more important than this blog. I knew, I knew it. But you know, sometimes I need to demonstrate a free writing to turn my writing switch on.

Although I don't know what to begin with. It is already April 2013, new year, the Spring semester is almost ending. (I knew I need to tackle on my final project asap, too. Oh well.) Since I came back to this Aloha island, everything has been so surreal. There were several really serious tough happenings in my life last semester. Some of them were quire critical for my life and surely affects my future for decades. Life happens. But life goes on. I gotta live my life. On the other hand, since passed lunar new year, I believe, things around me is quite surreal in the different way. I still feel like my passed spring break was just a dream. Well, even put the fact besides that the Big island never betray me, it is still dreamy and unreal. I am sure I am going back to the same place again, and I will experience an another kind of awesomeness. It is quite strange that I still feel like my spring break has not yet over. That's a contradiction. I knew it. Yet still, I cannot upload my pictures from spring break on Facebook since I feel like it is telling myself that the amazing time has over. So, I might be still dreaming and I don't have any idea to prove it anyway.

Perhaps I might be able to say that I am really thankful for those who around me, stand with me, jam with me and share stories with me. I really feel like I am in the right place, at the right time, with right people. I don't know what future lead me where though I am having one of the best days in my life. So far, so good.

After this semester, I am going back to Okinawa for a month. I hope I could relax, reunite with my favorite people, and get some valuable information and questions from my island. I am also excited to going to Singapore which has been quite an interesting place for me for a long time, culture wise, politic wise, landscape wise, well, pretty much in every aspects. I am visiting there with my lovely phD friend who is presenting in her first ever solo international conference. It is such an honor to be there and share the significant moment together. We sure will have fun and great experience. I will never get such opportunity again in my life in the future...everything has been so special these days.

Things happening around me recently energizes and encourage me so much. Still lot to think, sometime get confused, sometime be relieved. This is my time for nurture my life. I might be getting closer to my own truth, hopefully.

2012/10/16

Where East mingles with West and even South and North

先週の月曜日はコロンブスデー(Columbus day)という祝日だった。発見者の日(Discoverer's day)と呼ばれたりもする。「コロンブス」が「新大陸」を「発見」した日なのである。いや、インディアンがコロンブスを「発見」した日でもある。このように、この休日の解釈は色々議論が分かれている。ちなみにハワイ大学ではだいたいの授業が通常通り行われ、私の住んでいる東西センターの寮では後者の表現が使われた。(ただしこのセンターは国のものなので、職員は休日だったようだ。ハワイアンがジェームス・クックを「発見」した日はいつなのだろうか…)

さて、ところで東西センター(East-West Center)は特別な場所だ。名前の通り、アジア、アメリカ、アフリカ、中東、太平洋諸国、オセアニア等世界中から学生が集まり共に生活している。東、西というネーミングは東洋と西洋の対比を含む表現であるのでちょっと疑問符なのだけれど、東西の枠を越えて、多様性を重視したプログラムを提供している。お陰さまで沢山の人に合うことができ、ここに住んでいるだけでもハワイに来た意義があったと思えるくらいだ。

学生たちはほとんど全員が修士、博士ないし研究者であるため、政治的でアカデミックな会話は日常茶飯事だ。(そして文字の与える印象通り、それは主にキッチンで行われる。)最近の主な話題はアメリカ大統領選である。単にその国の一部にいるからという理由だけではなく、この結果が大きく母国にも影響するからである。

今日もキッチンでイランからの学生と第二回大統領選討論会の話になった。
私を含む留学生の関心は、主に外交関係であり、これは討論でなかなか語られない。
ましてや、アメリカ人有権者であるオーディエンスからの質問も少ない。彼らの関心は主に雇用、経済、保険制度、税金などである。
それはそうだ。アメリカの抱える「国内問題」は多数あり、これらは彼ら「アメリカ人」の生活に密接している重要な問題である。


こちらはこちらとして、候補者の外交関係ポリシーについて知らないといけないね、と話す。
と同時に私たちは彼らを選ぶことができない、というジレンマが浮かび上がる。
いくら立場を知ったところで、私たちは彼らを選べない。その権利はない。せめて、この点においてはこちらをサポートしたい、という話をする位である。

大統領選討論の話をしながら、イランから来た彼が感じる不安と、沖縄から来た私の感じる不安とフラストレーションに同じ波を感じた。私たちは彼らを選べない。


先日のセミナーで紛争や社会闘争のあとの和解のプロセスの議論になったとき、東ティモールの学生が言った忘れがたい一言が響く。

「我々は隣人を選べない」

だからどうにかうまくやっていく方法を探すしかないんだ…まだまだそこに溝があったとしても。一対一の関係を築いた、その後だからこそ。

彼の話の文脈は、南アフリカにおけるアパルトヘイトの克服と、東ティモール独立後のインドネシアとの関係であった。
彼らは長い凄惨な戦いの後、独立を勝ち取っている。
その傷はまだ癒えていないが、両者の溝を埋めて、より良い関係を築くことをどちらも目指している。


隣人は時に多大な存在感をもって立ち現れる。


果たして
このデモクラシーの国と本当に一対一の関係を築けているのだろうか。
あくまでも「発見者」のホスト国であるこの国の施設と、プログラムと、その恩恵に身を浸したこの環境で考えている。

また沖縄で起きた婦女暴行事件とオスプレイを巡る騒動、過去の事件事故についてのニュースを眺めながら。

2012/08/27

Here I am again

卒論を書き上げたらブログに少しずつ上げていこうと思っていたのに、すっかり半年以上放置して
しまった。

最後の投稿は2月。
3月には卒業し4月に留学と奨学金が正式に決定し、
5月から7月はひたすら未来の生活費と学費を稼ぐ日々だった。
それでも今より時間に余裕があったはずなのに、こんなに忙しい今にブログを再開することに決めた。

ということで、再びハワイにいる。

専攻はUrban and Regional Planningに変えた。日本語で言えば「都市・地域計画」なのだけれど、学部の内容ばそれ以上だ。人がある地理的空間に住まう上でのあらゆる要素を計画しそれを研究するフィールドである。計画は土地利用に限らず、大小を問わず地域コミュニティ内の経済・社会サービスをも計画する。計画するというよりはむしろデザインしているという感じだ。

Ethnic StudiesやSociologyをやっていたころとは関係ないようで、実は密接に関連している。
エスニシティやエスニック集団が生きていく上で土地性は欠かせない要素であるし、その土地をどう利用するのか、その土地でどのような文化が営まれまたどのような人がどのような権利を持って生きるのかを規定するのはむしろプランニングの分野である。土地があり、人が住んでいるからにはそこに社会がある。そんな社会の中で人が実際どう生きて行けるのかを考慮し、計画によって実現していくのがその目的である。

どんなに懐古主義に走っても、実際多くの人は民主主義社会のシステムを支持し、経済という綱を渡って明日を生きている。あるいは、新しい国家の中で自身の居場所を確保しようと試みる。
変わったしまったシステムの中で、エスニック集団を含む権利を追究し、実社会ともうまくバランスをとれるような生き方はできるのだろうか。

これは、コミュニティプランニングといわれているものに近い。
コミュニティプランニングの基本は様々な人のことばに耳をかたむけること。その大きな役割はポリシーを作り、実際の政策なりアクションを作ることである。その実現の手法も学ぶ。少しは実用的な学問に近づいたかとは思うが、まだこれでどこまで実際の仕事を得て役に立てるかどうかは未知である。しかし幅広い分野をカバーするカリキュラムの中で、少しずつその多分野の要素も学べるはずである。

経済にしろ交通にしろ開発にしろ、共通する問いは「ここでどう住まいたいのか」なのである。それを選ぶのは明らかにそこに住む人々である。できないことはない。では、なにがしたいのか。未来の形があれば、最適な方法を、またその限界を、その分野の専門家たちは教えてくれるだろう。

しかし「ここでどう住まいたいのか」は、人間の単純な夢どおりに実現せずまた自然との約束の上に続かないことがわかっている。それをまた、人と土地の間で考えている。

2012/02/20

「生活」と「観光」の空間

人が変われば前提が変わる、常識も目の付け所も変わる。
自分の前提と違う何かが共有されている空間ってなんだか居心地が悪いものだ。

ということで今日はあるレクチャーをたまらず基調講演だけで飛び出してきてしまった。
テーマはずばり「地域の<宝>を活かした観光とまちづくり/島おこし」であった。


最初に「何の資源もない島でやっていける産業は観光くらいでしょう」みたいな前提から入っていたので、<宝>って観光商品化できる<資源>のことなんだろうなあっていう前提が共有されていたわけですよね。産業ってイコール金になるってことですよね。いやあ、<宝>ってどういう存在なんでしょうか。

基調講演のサブタイトルは『「観光地」と「生活空間」の両立は可能か」興味深いですよね。つまりはゾーニングの話。観光のための土地と人々の生活のための土地をどう区分けるのか。
話者は観光地理学の教授らしく、ケーススタディとして4つの島を紹介してくれました。
屋久島と、瀬戸内海に浮かぶ島2つ、あとドイツの離島。
ドイツがいかに再開発時に制限を設けていたのかは興味深かった。戦前も100年以上観光地であったこの島は、統一される90年までは東ドイツの管轄だったので、大規模な開発はなかったんですね。だから統一されてから開発が本格的に始まるんだけど、その時にはもう既に環境コンシャスな国だったわけだから、ビーチを区切らないとか、建物が直接海岸につながっていてはいけないとか、自然海岸を守る細かなポリシーが決められていた。計画的な観光地がうまく機能している例だといえるでしょう。

ほかの日本の例は、なんだか観光地になるはずじゃなかった土地が人がいっぱい来るようになったもんで、どうにか対応に腐心しているといった感じ。屋久島が縄文杉だけに客が集まるもんで、どうにか分散しようとしているとか、計画都市以外の場所を埋めるように移住者が家を立てているので手がつけられないとかいう話は面白かった。移住ってのは、一種のフロンティア思想的なところがあるんでしょうかね。自分だけの楽園をどこかの土地でつくりだす。でも、その(地理的・社会的)コミュニティにはなかなか親和しない。最近は、土地の人々のほうにも歩み寄る人もいるんでしょうが、屋久島の例はそうではなかったみたい。

なぜなのか。※ここからは私の感想です
理由はもうひとつの前提の話。その前提は、「観光地」が日常のリアリティ=「生活」の空間と乖離している必要性。そしてそのために、「生活」の空間と「観光」の空間は区分けされている必要があるわけだ。
まあ、わからない話ではない。
だけどさ、そこに住んでいる人々の「生活」はそんなに忌避される必要があるわけ?
ここで前提とされている生活は「近代的」な彼らの「日常」に非常に近いものとして想像されているんですね。だから、避けたい。
そうでない「現地人」の「生活」は、また「独自性」のある、「非日常的」なものとして「宝」と呼ばれ商品化されていくのでしょうか?そこに賛同し、その価値とそこに付随する面倒なものまで抱え込める人が、その(地理的・社会的)コミュニティに溶けこんでいこうとするのでしょうか?

だれが何を<宝>と呼んでいるのか?

元々バカンスの習慣に馴染んでいるヨーロッパ諸国の人が、「観光地」として土地を切り離すこと、またその土地をポリシーで守ることは合理的な気がする。
それと、何らかの理由や<資源>を見出されて観光地化された土地とを区切ることはなんだか違うのではないか。
そこは、元々その土地の人々の「生活」にとって、「宗教」にとって、大切な土地ではなかったのか?という疑問が浮かぶ場合もしばしばあるからだ。
充分に近代化された現在の人々の「生活」や「日常」に、土地性というのはもはや関係ないのかも知れない。
でも、それを考えなおし、土地とどう永く付き合っていくか、テレビでも、ラジオでも伝えきれない<何か>を、<宝>を知っていたいというのがその土地に住むものの思いであり一種の役割ではなかったのか?

そう考えるとき、近代化された<日常>との対比によってしか立ち現れない<宝>って何だろう。はたして、それは同時に、空間によって区切ることができるものなのであろうか。区切ることで売り渡してしまえる<宝>とは、誰のものなのであろうかと、疑問に思って仕方がない。

<島人ぬ宝>はどこにあるのだろう?誰のためにあるのだろう?


基調講演だけ聞いて、あとは県内で活動している機関・企業の事業報告だったので、レジュメだけもらって別のレクチャーに行っちゃったのである。ゆえに、これらの機関・企業がやっていることについては、あくまでも言及していません…。(那覇のまちま~いなんかについては、面白い取り組みだと思うと同時に、それを地元の人や観光客に関係なく商品化しないと学べない状況があるのねーと…。私たちが発見する<宝>も、他人の杓子定規を内在化/借りてきたものによらなければ、いいのに…とか、考えたりしているのだけど、これ、別のはなし)

2012/02/02

土地を旅する


おもわずツイッターに大量に投稿してしまったので、ツイートを補足しつつブログにまとめておこうと思う。

琉球大学「人の移動と文学」レクチャーシリーズ第五回の、谷啓次郎氏のお話から戻ってきた。
テーマは「旅を書くことを考える」。彼はブラジル、ハワイ、ニューメキシコ、ニュージーランドに住み、学び、様々な土地を旅してきた作家であり詩人だ。

 彼は各々の人のイメージする「世界」は、その人の生きてきた「場所」の地図=Strangeography(Strange+Geography)を通してしかはっきり浮かび上がってこないものだと説明する。それぞれの思う「世界」はまさにその人の「世界」での経験であり、他の誰も所有することはできない。旅は自分の「世界」を広げていく行為である。しかし、「旅」はまた彼にとって後ろ向きな記述しかできない、「徒労」だと表現する。なぜか。

現在の私たちは「世界」に関する様々な情報に触れている。そしてそれを避けることは難しい。その世界のある土地の情報は、先入観として私たちの心の地図の一部となっている。その心の地図を広げて、目の前の土地と照らし合わせたとき、いかにそのイメージが過大な期待で塗りつぶされているかを知る。これが彼の言う「徒労」だ。「うまい」旅人は行く先々に異質な、既存のイメージにはない独自のきらきらしたものを見いだせるが、彼は、いやほとんどの旅人は、それのできない「下手な」旅人だ。
彼の著作の朗読からは、ガイドやパンフレットにある風景を探しに行き、西洋的な価値で切り取られた「商品」のみを「見るもの」とし、そこに自らの顔をはめこむ「観光」を前提とした「旅」への嫌悪感があった。同時に、しかしその方法以外に土地との結びつきを見つけることの探しきれないやるせなさ が伝わってきた。

そんな旅の表面で救い取れないものはまさにその土地の深みである。
その土地でその土地で生まれ育った人々がいかに生きているかまた、生きていくべきであったのかは、現在の「商品」とイメージの「消費」を促す「観光」を基礎とした旅には埋もれ、客人が訪ねるだけではそうそう知り得ないものなのである。

彼のテーマは批判的な土着性とクレオール性がテーマだ。土地とともに生きていく術をそこから学び取り、伝えていくことが今からの文学に必要だというのである。文学なら、世界に充満する物語を塗り替えるような物語を提供できる可能性があるとおっしゃっていた。
 私も彼に賛成する。そしてそんな文学はすでに土着民が持っているはずなのではないか。
土地と共に生きる術や物語を伝える、それはネイティブの文学を研究するひとつの意義でもある。 それを言葉と共に掘り起こすのもまた大事だろうな。言葉が運ぶその話者たちの世界への意味付けははかりしれない。

話を聞くたびにどうしても我が沖縄をあてはめずにいられない。
沖縄に移住者が増える、税金優遇によって企業が増える、みたいなきっかけから、土地ってなんだろう(ここでやる必要性って何?)と考えていた。その土地(自然環境、生態系)との行き方を知っている人には土地ってすごい意味があるのだろう。しかし、逆に都市化・均一化していく中においてはその環境というのは経済的な要因にしか依らないのかもしれない。
彼は現在世界で混血、混住が進んでいるというが、それはあくまでも経済的要因からに過ぎないと断言した。お金を稼ぐために、人が集まる。その内部で階層が生れ様々な人々がいるようにみえるがしかし他のグローバル・シティと何ら変わりはない…といったことであると解釈した。あくまでも地球のシステムではなく、人間のシステムの中での話なのである。

土地との暮らし方を知らない人々は、それこそ何かあった時、ノアの方舟に乗れなかった人々として流されていくのかも知れない…とちょっと思った。ハワイの暮らしの根底に流れる アロハ・アイナの精神は、きっとそこでは勝ち残るのだろう。 それがまさに今の地球で、席巻してる物語の結末で、文学が訴えようとしていることなのかもしれない。土地とのコミュニケーションを無視した人々は、いったいどうなるのか、知ったこっちゃない。
また、一度その土地と生きる術を失った我々はどうその知を取り戻せるのだろうか? 例えばうちなーぐちを継承する中で、たんなる言葉だけではなく、その内包する知も共に受け継がれるかどうかは、大事な点となると思う。
その点で、ハワイの人々が音や文字としての言葉を復活させただけでなく、そこに流れる知や生き方まで復活させようとしていることは、実に意義あることだと改めて感じた。


このような視点は、今後沖縄の経済発展や開発やというか沖縄で生きるということや世界に出向くというような場面に関わってくるだろうと思う。切り口が違うと、また違ったリアリティに気付けるかもしれない。

土地と民族について考えるのも面白いだろう。たとえば、世界に散らばる(といわれる)ユダヤの民や華僑・華人たちは、それこそ資本主義のシステムの中で形成された「民族」なのではないか? 沖縄という土地を離れてなおウチナーンチュを主張する人々の民族性はどうあるのか?私たちが共有していると思っている価値は、その昔沖縄という土地で形成された知とは異なるものなのか、どのような価値が選び取られているのか。残っていくものが果たしてどの土地に生きても共有される普遍的な価値だと言えるのか…?あるいは、その土地に住み込むことになった人々は、その流儀に従わざるを得ないと言えるだろうか。


長くなったのでこの辺で終わりとするが、おそらく思考は止まらないだろう。
まだ多く挙げても沖縄、ハワイ、日本、アメリカ、オーストラリア、カナダ程度しか知らない私の世界は、どこまで広げることができるだろうか。その中で、いかに土地とともに暮らす人々に会えるのだろうか。下手な旅人なりに、またどこかへ行きたくなってきた。

2012/01/20

そつろん

あっという間に2012年になってしまった。今年ほど先の予定が見えない年は今までなかった。
それでも色々なものに手を出すことにはなると思うので、しばらくは好奇心のままに生きていこうと思う。(こんなことを言ったらある人に「若いなあ…」と言われた。20代の無鉄砲さはいつまで続くかな?)
卒論の提出も大学院のアプリケーションもすみ、無理なバイトをすっぱり辞めてすっかり生活に余裕ができた。新しいバイトも始めた。そろそろ新しい勉強を始めたい。英語の勉強もまた再開しようと思う。今は就活も公務員の勉強をするのにもなんだか気持ちが中途半端でしょうがない。大学院の結果が出るのが遅くて3月末なので、それまではモラトリアムを満喫することになるかもしれない。いや、なるんだろうなあ。自分はこの先何をして生きていくんだろう。


 卒論が終わったことで、なんとなーく大学生活が終わったような気がしている。卒論はまさにこの大学生活4年間の総まとめになった。社会学への入り口、英語を基礎にハワイでの留学経験、そしてそれらをまとめる作業。4年間の全てがつながっている。沢山の人に助けていただいた。思っていた以上に、なんだかものすごく内容以上に身の詰まった思い入れのある一作となってしまった。

 論全体にながれるテーマは「Who is Uchinanchu? (誰がうちなーんちゅ?)」である。これは先行文献としてかなりお世話になったウェスリー・ウエウンテンさんと、新垣誠さんによるダイアログにはじまる。三線が弾ける弾けない、美浜を知ってる知ってない、テビチは好きか、出身は、両親の出身はどこか…とどちらがより「うちなーんちゅらしい」かを争う滑稽な寸劇である。私の問題意識は、まさにここから始まった。私は三線が弾けないし、うちなーぐちもしゃべれない。だったらテレビに映る、ハワイや南米で三線を弾き民謡を歌う彼らの方が、よっぽどうちなーんちゅらしく見える。果たして、本当にそうなのだろうか。
 実際ハワイに行ってみると、そこで見られる沖縄文化はとてもお祭り的であることがわかる。でも、人々は真剣に沖縄を学ぼうとしている。組織運営や継承や伝統へのこだわりだのごちゃごちゃはあるけど、みんな「オキナワ」という何かに関わることで、楽しそうにやっている。
そんなオキナワンやコミュニティのメンバーを見て、留学生は自身にうちなーんちゅらしさを問いかける。でも、一方でお祭り的なオキナワ文化にも疑問をもつ。「あれ?自分が知ってる沖縄はこれだけじゃない。もっと複雑で、もっとごたごただ。でも、彼らは確かに自分に足りない沖縄を知ってる。
対話は言葉ではない形で繰り返されている。


 また、ハワイが沖縄出身の学生に与える影響も大きい。ハワイアン・ルネッサンス(ハワイの文化復興。ほとんどなくなりかけていたハワイの文化を、ハワイアンの人々は様々な活動によって取り戻していった。)の話は、うちなーぐちを喋れない、沖縄の文化を余り知らない、政治的な立場の低い沖縄にとって、ヒントをもたらすものであった。ハワイと沖縄は文化のみならず米軍基地、社会的地位、歴史、観光、経済など様々な面でまた沖縄と類似していることに気づくのだ。
 そんなハワイやハワイの「オキナワ」を見てきた学生たちは、自身の中の「沖縄」を見つめ直し、今の自分と自分をとりまく「沖縄」についてどーにかこーにかもっと良い未来を目指してがんばっている。誰がうちなーんちゅかなんて何で決めるの?そんなことはわからないけれど、自分の信じるうちなーの未来に向かって、みんながんばっている。

簡単に言うと、こんな話である。

 ハワイの「オキナワ」は世界中に散らばる「オキナワ」のひとかけらに過ぎないし、それも日々変わっていく。ただ、これまでに、ハワイで、ハワイのオキナワンの方々と出会い、今頑張っている方々について、その人達の背景みたいなものを伝えたかった。「外に出ないと沖縄はわからない」なんて言うが、外で何を見てきたのか?外に行けない人にも伝えたかった。

 以上私の卒論の内容をざっとまとめてみた。これは私の留学体験記でもある。同時に、ハワイに行った誰かの、沖縄の外に行っただれかの留学体験のエッセンスが詰まっている。

 わかったことは、「私たち」は、何が本当かわからないけど共通のものとして「オキナワ」を紡ぎ続けているということ。今の世代の「ウチナーンチュ」たちが、何を選びとり何を伝えて、どんな沖縄を創り上げていくのか、ずっと見ていたいというのが、専ら最近の私の好奇心の所在だ。

 ウチナーンチュ大会でできた事務局に関わりながら、常に問いかけている。世界のウチナーンチュはみんな同じじゃない。それぞれの土地にはそれぞれのウチナーンチュがいる。つながって、どうするか、なんで、つながるのか?何がうちなーで、何が自分をウチナーンチュたらしめるのか、これはいつでも自分が決めることなのだ。でも、他の「ウチナーンチュ」に出会ったら、そこでお互いの「オキナワ」の交換が始まり、その対話は永遠に続く。

 とりあえず「誰がうちなーんちゅよ?」という問いかけに対して、私は「We are Okinawan」という答えを出しておいた。とりあえずの漠然とした答えだ。でも今はそう言うことしかできないと思う。オキナワのルーツがあって、そのエスニシティを自分のバックグラウンドとして選ぶのは自由。あとは、いかに自身をウチナーンチュたらしめているか、考えていく。自分との対話も終わらない。
 これがとりあえずの結論である。



 先が見えないのも、自分の選択と自分以外の人の選択が組み合わさってどうなるかわからないのも、何事も同じという話なのかもしれない。

 ウチナーンチュ大会と沖縄を紡いでいくことについては、また改めて書こうと思う。

 


2011/12/08

Pearl Harborのおもいで#3

さて、パールハーバーから70年とは言うものの、パールハーバーはまだ存在し続けています。
そこは、真珠湾攻撃から太平洋戦争までのアメリカの記憶を保存する土地であると同時に、現在も多数の軍艦が停泊する現役の軍港でもあるのです。一度でもそこを訪れたことのある人は、持ち込む荷物が限られていること、写真をとることが禁じられた橋などを覚えていることでしょう。アリゾナ記念館は今も流れ出る船体の油を見せてくれるように、各博物館が現在も進む技術や米軍人への誇りを主張するように、その全ては終わってしまった過去の記憶ではありません。

「リメンバー・パールハーバー」と言われるとき、未来の人々は何を思い出すようになるのでしょうか。


さて、もうひとつだけ思い出してほしいことがあります。
それはパールハーバーという土地の歴史です。
元々、パールハーバーは、「プウロア」(長い丘)もしくは「ワイ モミ」(真珠の水)と呼ばれ、魚を飼う沼や神殿のある土地でした。話はハワイ王国が米国との間で揺れる1876年まで遡ります。

その頃ハワイの砂糖プランテーションは、他の国が砂糖を自給できるようになっていたため、市民戦争で砂糖が不足しているアメリカを唯一のマーケットとしていました。そのアメリカへの税金の優遇処置と引換えにパールハーバーを譲る条約を結ぶようアメリカに迫られ、ハワイ内の政情はこの条約の受諾可否で揺れていました。これはハワイ占領への第一歩だという訴えもあったようです。
結局1876年9月に1886年までという条件付きでこの条約を受け入れたのですが、実はこの約束の中には、パールハーバーの借用は含まれていなかったようです。(後に書き換えられたと聞いています)
またこの内容は結局プランテーションの持ち主である白人(主にアメリカ人)オーナーの利益になるものでした。
この後力をつけ始めた財界の人々により、当時のカラカウア政権は、武力によって米国よりの新しい憲法にむりやりサインさせられ、アメリカの傀儡政権になってしまいました。それでも王は世界をめぐり王国の存在をアピールし、イオラニ宮殿をつくり、ハワイの作り、また太平洋の島々と協力体制を築こうとしました。しかし王は病にかかり、サンフランシスコで「休養」の途中で帰らぬ人となってしまいました。
これが1891年です。それを継いだ最後の女王リリウオカラニも王国存続のための努力はしましたが、結果はみなさんが知っているとおりです。
その間、パールハーバーは、物流の拠点になっていました。

1896年、アメリカはスペインと、フィリピンで戦っていました。

1896年、ハワイのアメリカ統合の条約が出され、沢山の反対署名が集まりそれは却下されました。

1898年、アメリカ議会で合同決議が通りました。これを契機にパールハーバーは軍用としても使用されるようになりました。

1900年、沖縄から移民が到着したその年、ハワイはアメリカの領地になりました。

この後プランテーションはどんどん土地を広げていきます。
そしてパールハーバー以外でも、オアフ島の25%の土地が軍事用施設としてアメリカへ接収されていきました。ダイアモンドヘッドは砦として利用され、トンネルが掘られました。他の島も然りであり、カウアイのモオモミは今でも米軍の軍事訓練施設です。第二次世界大戦からはカホオラウェ島がまるごと演習射撃の的として利用されました。

そして1941年の真珠湾攻撃です。

そして今もパールハーバーは、アメリカ軍の利用する現役の軍港です。
今年発行された「観光コースでないハワイ」によると、現在ハワイにある軍事施設は152箇所。その面積は、ハワイ諸島全体の5.7%、オアフでは22.4%を占めている」といいます。また、オアフの主要な道路はまるで各軍事施設をつなぐように作られているようにみえます。


繰り返しますが、全ては終わってしまった過去の記憶ではありません。
今も続く戦争や占領を維持する場所でもあります。

長々と書きましたが、これらのことが私の思い出す「パールハーバー」なのです。


*参考文献*
高橋真樹『観光コースでないハワイ』高文研、2011年
もう少しハワイについて知りたい方にオススメの一冊です。

2011/12/07

Pearl Heaverのおもいで #2

私の二度目の真珠湾訪問は、2011年2月24日に行われた"After Dark in the Park- Celebrating the Nisei Legacy" という日系二世兵士の展示ができたこと、また彼らのエピソードを集めたDVDがで
きたことの記念イベントのようなものでした。

最初に来たときに工事していたのはこのブースと、アリゾナ記念館に入る前の映像を展示するシアターだったようです。
二世兵士に関する展示がある館の入り口は左の写真のようになっています。

イベントの内容は、二世兵士たちの戦争体験を、プロの語り部さんが公演するというものでした。
語られたのは、ハワイで生れ、しかし教育の関係で沖縄に戻り、沖縄に残り神風特攻隊に志願した兵士の話、開戦直前にハワイに戻り米軍に従事し、沖縄戦で住民に投降を呼びかけた兵士の話など。また第二次世界大戦下のヨーロッパで、難民に向けて大量にビザを発給した杉原千畝の話もありました。後方のスクリーンにはずっと当時の彼らの写真がスライドショーで表示されていました。

語り部さんがまた感情の表現のうまい方で、時には滑稽に、時には真剣に、時には痛々しくそれぞれのエピソードを表現してくださいました。ほぼ目の前にいた私は公演中ずっとちむわさわさーしっぱなし。色んな感情がつぎつぎと入ってきて、ちょっと疲れてしまいました。
エピソードの根底には、彼らがアメリカ人としていかに戦争に貢献したかというテーマが流れていたように思います。442部隊で活躍した話はもちろん、米軍への志願の動機は、「日本人」としての差別のなかでいかに自身が「アメリカ人」として貢献できるか、認められるのかを考えた結果、ということが協調されています。

彼らは、パールハーバーの文脈においては、差別という逆境の中で見事「アメリカ人」としての職務を果たした「ヒーロー」達なのです。これは展示の内容にも言えることだと思います。その意図は、おそらく彼らの名誉回復なのでしょう。彼らは言われているような敵性日本人ではない、立派に当時の敵国帝国ジャパンに果敢に立ち向かった英雄のひとりなのです。杉原千畝のエピソードも、ナチスからユダヤ人を救った存在としてまた敵性日本人のステレオタイプを覆す働きをなしているのかもしれません。

また、これらとは対照的に、神風特攻隊に志願した方はその内情を知らずなんとなくであった、というように表現されていたのが印象に残っています。(この演技は非常に滑稽な様子でした)
そして本人の語らない「体験談」の異様さとの葛藤。どこまで脚色されているのだろう?と疑問に思うような「演技」でもあったのですが、これらの話の元になった経験をした方々も会場にいらしていたので、おそらく誇張されてあるであろう表現には問題はないのでしょう。
というより、実際彼らは「アメリカ人」なのですし、このような説明のされかたはむしろ彼らにとっても名誉なのかもしれません。
帰りに寄ったパールシティにある
創作沖縄料理店のあんだぎー。
中にはソーキが入っていた。
うーん、テイストオブハワイのオキナワ

講演後に何人かの二世の方々とお話をさせていただきました。
彼らは私が沖縄出身だと知ると、昔の自分の住んでいた地域や、ハワイで自身が組織した沖縄系人のグループのことについてなどお話してくださいました。このパフォーマンスを受けてのお話も、当時は本当に大変だったというような調子でお話されていました。最後に退室なさる際、奥様の手を引いて、「僕は妻を大事にするよ。だってアメリカ人だからね」と去って行かれたその言葉は、冗談と取ればよいのかどうか戸惑ってしまいました。

日系二世の話をする際、彼らの受けた教育によって彼らを分けることがあります。
ひとつは米国で生まれ、大日本帝国下の沖縄や日本で教育を受け、海外に帰った帰米二世、もうひとつは、日本学校に通っていたとしてもずっと米国で生活している二世です。
ちなみに、上に書いたように「自分はアメリカ人だから」とおっしゃっていた方は、ずっとハワイにいらした方です。
教育の違いが個人の人生や生きざまにどう影響をもたらすのか、二世について研究されている方々の気持ちが分かるような気がしました。

このイベントで披露されたパフォーマンスは、Treasure: Okinawan Memories of WWII」という名前でDVD化されているようです。どこから出ているかはわかりませんが、収益はHUOAの沖縄プラザ建設への資金になるようだったので、HUOAに問い合わせると手に入るかと思います。また、英語でよければHawaii Nisei Storyというサイトでも沢山のエピソードを読むことができます。

3度目に展示を見るために訪れた時もこれらの印象はかわらず同じでした。
二世兵士もまた、真珠湾の形作るアメリカの物語の中に収められています。

次の記事では、ハワイにとってのパールハーバーについて書きたいと思います。

Pearl Heaverのおもいで #1

7日沖縄タイムス朝刊の記事
[真珠湾70年 和解の千羽鶴 県系人寄贈] 
アリゾナ記念館に、沖縄系の方々が中心に千羽鶴が送られたそうです。記事に出てくるシャーリーさんはパールハーバーの資料館に日系二世兵士の展示を作った方でもあります。


きょうで真珠湾攻撃から70年だそうです。
真珠湾には、三回行きました。
1回目は友達と一緒に、どんなものか見てみたくて。
2回目は日系二世兵士の展示ができた記念のイベントに誘われて。
3回目はその展示をちゃんと見るために。


真珠湾は、唯一私がハワイの中で強固な「アメリカ」の存在を感じたところでした。
そこはまさしく兵士たちへの哀愁と国への誇りが上手く噛み合わされ演出した領域です。
沈没したアリゾナの上に発つモニュメントに行く前にまず、ビデオを鑑賞しその攻撃と犠牲の様子、歴史を知ることとなります。その後、暗い映写室からまぶしく静かな乗船場へと静かに案内されます。
沈没した戦艦アリゾナの真上にたつアリゾナ記念館では、未だ船体から流れ出る油を見ることができ、その連ねられた名前の多さに圧倒されます。日本人が訪ねて多少辟易するのは、ここで感じる些かの加害者意識からなのでしょうか。


アリゾナ記念館まではチケットをとれば無料で行くことができます。この前に建っている2011年2月にリニューアルした資料館も無料で観覧でき、この中に日系二世兵士の展示も設置されています。
他に潜水艦ボウフィン、降伏文書の調印が行われたミズーリとその船内、展示を見ることができます。
パシフィック・アビエーション・ミュージアムという飛行機に特化したアミューズメント的印象を受ける館もあります。


私の場合、1回目は潜水艦ボウフィンとミズーリまで行ってみました。
どちらも当時の船員たちの暮らしの様子などが再現されています。
またボウフィンは船体の目の前、ミズーリは艦内に資料館があり、その歴史などを知ることができます。
ミズーリは各所に案内役の方がいるので質問に答えてくれ、またツアー客への説明を盗み聞きすることもできます。
どちらも沖縄戦でも「活躍」した館です。ボウフィンの船体には、彼(彼女?)が沈めた日本の船の数が日の丸の数で誇らしげに表されています。また資料館では同じように沈めた船の数を国旗で表した旗がありました。彼らの戦果の証なんですね。
ミズーリは激戦のさなか応援として沖縄に寄ったのち神戸や東京へ向かい降伏文書の調印式を行った経緯を知りました。
かつて艦砲射撃の一部だった船が、日本との戦争集結の地となり、その船内に私がいる、ととても妙な気持ちになりました。


ボウフィン博物館の展示の後半は、いかに現在の潜水技術が進んでいるのかの説明でした。
そこで私の目を捉えたのは「しんかい2000」です。深海の様々な事象を研究することに活躍している船で、確かに最先端の技術であることは確かでしょう。しかし日本の現代の技術がこのような文脈で、しかも展示の一番最後に置かれていることは衝撃的でした。


案外この話は長くなりそうです。
2回目と「真珠湾」自体の話を、また分けて書いていこうと思います。



2011/10/27

Let it be

 As a starter for write a long essays again, I just came up with the idea to write a blog.
What I am doing now is essays for application. Yes, to apply for graduate school of UH.
I've been keep saying that I want to make my study more practical. That might be a great frustration every humanity major student confront with. Yet since I could conclude my original research question in the field of sociology and ethnic studies, so I assume I can move on to another phase. My challenge is make my research more practical and solve one more question or problem that I could not answer in this four years. That is about future, of Okinawa, and life of every people who is living in Okinawa.
 Well, you may ask me how come I dwell on Okinawa that much. That is because I born and raised here, supported by many people or institutions, I have acknowledged many internal/external conflicts ,and I understand how those people related to me loves life in or land of Okinawa. There must be much better, more clever way to make a living in a way of adapted in community based on the lands and cultures. I desired to work toward it. Then what is that? I know this is such a big question!
 I don't really think there is another golden resolution for all. Perhaps what I'm trying to do is meditate those people and let each knowledge link. I know many people has each various specialties, and I believe we can make situation better if those specialists would collaborate together. It requires mutual understanding, and communication.
 These are why I try to study more. I study economics with historical backgrounds and relationship with politics to understand how current situation has shaped. I study plannings to make it practical in the future with perspectives with community and cultural lifestyle. Through these studies, I want to be a person who can explain why we have such difficulties and clear the causes, handle knowledge from various aspects, share and lead a reasonable resolution.

2011/07/14

I don't know why

 I don't know why but I'm feel like writhing now so I just decided to write something.

 It's been almost 2months since I had back in Okinawa. I don't feel it's so long or short, there were so many things I have done in the past 2months, there has been several changes that I faced.

 Now, I'm starting to write my thesis again...thinking about Okinawan Identity, and its creation or process of construction. In those great former studies, it can be found that so many hints and perspectives should be learned. Then I ask myself again, what was my purpose to write and show what I've seen and experienced in Hawai‘i? Well, right now, it's just for myself, myself to make my thoughts clear...and sum up my pleasure time in the other pacific island and so on. Surely, there were so many facts and interactions beyond what has been wrote in books. It would be my reality, my reality of Okinawan Identity, culture and community in Hawai‘i.

 When I think about my near future, specifically after my graduation from this university, I always question myself that do I really want to continue those studies and researches. That's a tough question, but also important. I want to understand more, and I'm sure I wouldn't make it completely forever...as long as it would continue and keep changing. Yet, it doesn't necessarily in the academic field though. I don't really know if my study and interest is meaningful for someone else beside me, since I'm always just following my curiosity around me. Yes, it might be a source of studies but I could done something more...more substantial could I say?

  I'm still pursuing my own interest, but not my life, I think I meant it more like 'living'. Life will continue somewhere else beyond my control. I have to eat, sleep and make my life by my own someday...the future not so far from now. I always postpone to think about it seriously, but at the same time, I know I cannot design it so specifically right now. Well, at least, I will think. (I'm always saying so too though!)

 Okay, my thought seems going a bit far from the point. Only thing I do for now is just do my duty, is keep writing what I wanted to see and write, and graduate from uni. That is good try to keep writing in English too, since I don't have any opportunity to write. English, english, english, that's one more thing I got in Hawai‘i. I do try to get more chance to use it. I hope I could get back some sense of handle it in a real communication through dropping myself in a such situation. I hope I can make it in  almost a month-long training camp with other students from Asia. It will start from orientating camp for those tutors tomorrow.
 The world is pretty much what you create...so be creative, man.

2011/06/27

1円玉のことを考えてる。

オーストラリアには1セントコインがない。
会計ででた1セント単位の端数やお釣りは四捨五入される。

損をしたと思うだろうか?それとも煩わしさがなくなってよいと考えるだろうか?


いま、1円玉のことを考えている。


以前なら財布に貯めるだけ貯めていたはずの1円玉を、最近はレジの目の前の募金箱に入れることが多い。
もちろん会計時には細かいお釣りのでないようできるだけ努力する。
しかし1円玉を次の会計の時に、と取っておくことはしなくなった。
このため私の財布の中は最近1円玉レスである。


1円をばかにするものは1円に泣く

とは有名な金銭感覚にまつわる言葉だ。



ハワイから沖縄に帰ってきて約1ヶ月、お金に対する感覚がぼんやりとしてきた。
まずはクレジットカードを使っていたためドル円レート為替脳で「円ならいくらくらい」という感覚があるため。
次に「必要なのはいずれ買う、いずれ買うなら同じお金」という考えのもと、先ず予算を立てるようになり、「予算内であれば自由にお金を使ってもよいとする」、という自分ルールを実行していたこと。

私の金銭感覚は、1円がどうでもよくなるほど麻痺してきたのだろうか?



いや、私は別に1円の価値を忘れたわけではない。
だからこそ細かいお釣りを避けるのだ。
新しい1円玉を産まないように。

あるいは、
どうせ後々1円玉で膨れた財布がいやになり、
家で貯金箱に入れるのである。
そしてその後買い物に行き、1円玉がなくまた新たに1円玉をこさえて帰る。
その一円も、塵も積もれば山となりいずれは結構な貯金になるかもしれない。

しかしそれでも今、目の前にある1円玉は1円の価値しかない。
いや、1円の価値がある。少なくとも、今は。

私は1円玉のもつ1円の価値を信じている。
そこに集まった小銭全ての価値を信じている。

そして私は募金箱にいれる。
店員から新しい1円玉を受け取る前に、財布の中の1円玉を探す。
そしてまとめて募金箱にいれる。
少なくともレジのそばに募金箱があるかぎり。


まだ1円玉のことを考えている。
私が手放した1円玉のその後を考えている。

2011/03/18

Aloha for Japan and paper clanes

世界から集まったUHの学生を中心に組織される団体、International Student AssociationによるCandle vigilがあった。先週おこった東日本大震災及びそれに伴う種々の災害の犠牲者に祈りを捧げるためのキャンドルナイトだ。
学内外から、100人足らずだろうか、Showing your Aloha for JapanのモットーのもとUHの芝広場に集まった。

災害直後から始まった募金活動の箱を横目に千羽鶴を折り、連ね、樹の枝にさげる。
祈りはキャンドルの代わりに携帯電話の光によって行われた。これは火を扱う危険性とキャンドルにかかるであろう予算のカット、また日々のコミュニケーションを象徴する携帯電話を使うことで被災者に届くようにという意図だった。夜7時46分、ハワイ時間でほぼ地震が起こった時刻である。
ちなみにこの方が着ているシャツには
ALOHAの文字がプリントされていて、
真ん中のOが日の丸のように赤くなっている

日本人及び日系人の多いハワイだけに、この一連の災害によって関係する誰かに災難が降りかかった人も少なくないだろう。メッセージとして読まれたある学生の手紙は、福島第一原発近辺に住む家族の状況を心配する緊迫したものだった。原発についてもこの一連の災害のひとつであることは間違いない。彼らにとって地震は現実の自分の生活を、いや人生を脅かすものでありつづけている。

鶴を連ねる手を休め、読み上げるその声に聞き入った。
彼らの一番必要とするものは、明日の命をつなぐ物資であり、それを供給する資金であろう。

この目の前の鶴、そして私たちの祈りにはどんな意味があるというのだ。


「これはまあどちらかというと私たちのためのものだけどね」
と隣で折り鶴に糸を通しながら彼女は言った。
「これはある意味格好だけのようなもの。でも後々この鶴をみて、日本の人がハワイから応援している人がいることを知って少しでも元気づけられたらいいかもね」
この鶴たちは、被災地ではなく、ホノルルにある日本領事館に送られる予定だ。
「地震の後、多くの人が、30ドルなり300ドルなりと募金はしている。でもそれが本当に役に立つのかその場ではわからないし、それで満足してしまう人もいるはず。だから、手を動かして自分で何かすると、もっと気持ちの方に入ってくるし、その間ずっと相手のことを考えるでしょう」

この携帯電話のディスプレイの光が停電している家庭を照らすわけでもない。鶴を千羽折れば何か奇跡が起こると信じていない限りは、すべてはただのシンボルに過ぎない。
しかし多くの人が時間や目的を共有し、身体を使いつつ考える時間を共有することは、今の思いを忘れない為にも必要なのかもしれない。


今はまだ震災直後で情報が錯誤し、すべての状況が明らかとは言えない。ましてや原発の危機は現在進行形である。しかし時間は人々を次の段階へ、次の段階へと押しやっていく。
言うまでもなく復興には時間がかかる。大切なのはこれからなのである。


「これは長期の、終わりの見えない挑戦になります」とメッセンジャーも締めくくる。
「どうか日本にそのアロハの気持ちを伝え続けてください」

これからの私に何が出来るだろうか。

2011/02/17

EWC International Graduate Student Conference Opening Ceremony

たった今、UHにあるEast West Centerで毎年行われるInternational Graduate Student Conferenceの開会式から帰ってきました。

行った動機はAmerica's Asian Anxieties: A View from Washington
っていうTalkがある!聞きに行こう。と思っただけだったのですが、これが実はConferenceのOpening Ceremonyも兼ねたTalkだったようでびっくり。

何がびっくりかってーと、時間になるとどこからともなくハワイアンチャントの声とリズムが聞こえてきたんです。何かな?と思って入り口を見ると、そこにはチャントを唱えるKupunaとそれに続く3人のHawaiian Ladies in Hula dress. これがオープニングセレモニーの始まりでした。


最初の曲は大地と火山の女神ペレに対するMele(Music).
二曲目はルナリオを称える歌
そして最後の曲の説明はこう始まりました



このMeleは、ハワイにヨーロッパの人々が来る前に作られたものです。

今からこの土地に、海から大きな船が何艘も訪ねてくることだろう
すると私たちは自らの小さなボートを漕ぎ客人を訪ね挨拶をする

その時
私たちは決めなくてはならない

この客人たちをこの土地にとどめてもよいだろうか
港を訪れることをゆるしてもよいだろうか

私たちは彼らの船に乗り、共に航海すべきであろうか
それともこの地に留まるべきであろうか

私たちは決めなくてはならない



そして彼らの選んだ道は彼らの船に乗り世界を知ることだった。
世界の広さを知ることだった。

しかしその心のなかにはいつでも「私たちの土地」がある。
長い旅路の果てにいつか帰るべき場所があるのだ。



Kupunaは続ける。
この、沢山の人々が交差する土地で
沢山の人々が互いの理知を共有する場で
私たちの神に敬意を尽くせることに感謝します。

あなたたちは世界の様々な土地から来て
様々な背景を持ち、様々な知恵を持っている。
そして様々な人とであう。

しかし忘れないで欲しい
どの人にも帰るべき場所があり
それはあなたをあなたたらしめているものである。


どうかここで
できるだけのことを学んでいってほしい

ここにいる少しの間
ハワイアンとしてすごすのもよい

しかし忘れないでほしい

それはあなたの戻るべき場所のためであり
それはあなたのためであることを

Aloha kākou (Welcome for all)



その言葉を聴き終えるまでもなく思わず涙が流れました。

初めて見る、指先まで繊細な動きの美しさと、
それ以上に深遠な、彼らの踊りの中にある知恵。
私がハワイに来た意味って、これだなあーとしっとり心に染みたんです。


語学がまだまだついていけないフラストレーション、自己管理のプレッシャー、制限、不安、天邪鬼

アメリカ内部の複雑さや対立、資本主義、システム、その他諸々から目をそらすこともできず、
取り込まれるしかないながらも、完全に流れに身をまかせることもできず

ハワイの人々やその状況、問題や考え方を理解しようとして
またハワイのオキナワンの人々について理解しようとして
それでも安全な第三者である自分の立場に安穏としていることに気づきながらもどうもできず

遠く沖縄のことを思っては
それでもなお追いつけないものの多さに愕然として

わざわざここにいる意味とはなんぞやと思っていた矢先、

ハワイにきて学んだものの多さに気付かされました。
見えてきたものも、つかめない焦燥感も、無知の知なんですよね。
自分がここで「知った!」と感じていることは、これまでに存在すら気づいていなかったものであり、
それ以外のものに関しては、「自分が何を知らないか」を気付かされているものだと思います。

逆に、「ここで学ぶ」ことはここに「染まる」ことじゃない。
私には私のバックグラウンドがあるし、何と、誰と接してどんな化学反応がおこるかわかったもんじゃない。
ここまでやらなきゃ、とか、ここまでできなきゃ、とか責任や義務を感じるものではないんですよね。

私の旅は私に大切な物を選びとる旅なんですね。
その価値判断は他の人がそれぞれその人にとってどうかを決めていくだけだと思います。
双方にとっての価値が合致したらそれは共有になるんじゃないかと思います。

まずは今日のKupunaの知識に感謝します。
私もまずこう書き残すことから始めてみます。


*International Graduate Student Conference 自体もすごく面白そうなのでUH行ける方はリンクをクリックしてプログラムをみてみてください:)

2010/12/16

Waiting for Winter

I cannot believe it's December. You know what, it's nearly 28-29C in the daytime here!
Now I know what tropical means.

It's holiday season, I can see christmas decoration and holiday sale everywhere,
but my winter has not come yet!
Not because of the climate but because of finals!
Finally I had 2 exams down, then just one paper to go. Since it assigned due friday, which is final day of the semester, eventually my semester got longest period.
Yet I swear it's fun though! The process of reconfirming my memory and connect, sometimes researching further information is quite meaningful:)
In addition, especially when you marked higher score than you expected, there's no doubt to say you did a great job!

Now, I just finished to write my whole essay and keep feeling writer's high in such a midnight...
Surprisingly, I did write 2953words, that is nearly 16,000 in character! feeling full of accomplishment, but it needed to be revised. well, I'll do it tomorrow. it's quite good to finish the draft one day before the due...I can have some space on my mind.
The paper is all about Okinawans in Hawaii and also mentioned the future, and possibility of whole Okinawan ethnic community in the world, including Okinawa itself.
Since I really helped myself to manage all of the information and analysis with some theories, I would like to share it somewhere...actually it must be here...after it has revised by my instructors.
I guess I will submit the Japanese version as my thesis for my seminar...
References here helps me a lot, and I have many many good curators who guide me a great resources and also fabulous ideas!

There's a lot more things to do in winter...it is actually around the corner.