2011/06/27

1円玉のことを考えてる。

オーストラリアには1セントコインがない。
会計ででた1セント単位の端数やお釣りは四捨五入される。

損をしたと思うだろうか?それとも煩わしさがなくなってよいと考えるだろうか?


いま、1円玉のことを考えている。


以前なら財布に貯めるだけ貯めていたはずの1円玉を、最近はレジの目の前の募金箱に入れることが多い。
もちろん会計時には細かいお釣りのでないようできるだけ努力する。
しかし1円玉を次の会計の時に、と取っておくことはしなくなった。
このため私の財布の中は最近1円玉レスである。


1円をばかにするものは1円に泣く

とは有名な金銭感覚にまつわる言葉だ。



ハワイから沖縄に帰ってきて約1ヶ月、お金に対する感覚がぼんやりとしてきた。
まずはクレジットカードを使っていたためドル円レート為替脳で「円ならいくらくらい」という感覚があるため。
次に「必要なのはいずれ買う、いずれ買うなら同じお金」という考えのもと、先ず予算を立てるようになり、「予算内であれば自由にお金を使ってもよいとする」、という自分ルールを実行していたこと。

私の金銭感覚は、1円がどうでもよくなるほど麻痺してきたのだろうか?



いや、私は別に1円の価値を忘れたわけではない。
だからこそ細かいお釣りを避けるのだ。
新しい1円玉を産まないように。

あるいは、
どうせ後々1円玉で膨れた財布がいやになり、
家で貯金箱に入れるのである。
そしてその後買い物に行き、1円玉がなくまた新たに1円玉をこさえて帰る。
その一円も、塵も積もれば山となりいずれは結構な貯金になるかもしれない。

しかしそれでも今、目の前にある1円玉は1円の価値しかない。
いや、1円の価値がある。少なくとも、今は。

私は1円玉のもつ1円の価値を信じている。
そこに集まった小銭全ての価値を信じている。

そして私は募金箱にいれる。
店員から新しい1円玉を受け取る前に、財布の中の1円玉を探す。
そしてまとめて募金箱にいれる。
少なくともレジのそばに募金箱があるかぎり。


まだ1円玉のことを考えている。
私が手放した1円玉のその後を考えている。