2012/10/16

Where East mingles with West and even South and North

先週の月曜日はコロンブスデー(Columbus day)という祝日だった。発見者の日(Discoverer's day)と呼ばれたりもする。「コロンブス」が「新大陸」を「発見」した日なのである。いや、インディアンがコロンブスを「発見」した日でもある。このように、この休日の解釈は色々議論が分かれている。ちなみにハワイ大学ではだいたいの授業が通常通り行われ、私の住んでいる東西センターの寮では後者の表現が使われた。(ただしこのセンターは国のものなので、職員は休日だったようだ。ハワイアンがジェームス・クックを「発見」した日はいつなのだろうか…)

さて、ところで東西センター(East-West Center)は特別な場所だ。名前の通り、アジア、アメリカ、アフリカ、中東、太平洋諸国、オセアニア等世界中から学生が集まり共に生活している。東、西というネーミングは東洋と西洋の対比を含む表現であるのでちょっと疑問符なのだけれど、東西の枠を越えて、多様性を重視したプログラムを提供している。お陰さまで沢山の人に合うことができ、ここに住んでいるだけでもハワイに来た意義があったと思えるくらいだ。

学生たちはほとんど全員が修士、博士ないし研究者であるため、政治的でアカデミックな会話は日常茶飯事だ。(そして文字の与える印象通り、それは主にキッチンで行われる。)最近の主な話題はアメリカ大統領選である。単にその国の一部にいるからという理由だけではなく、この結果が大きく母国にも影響するからである。

今日もキッチンでイランからの学生と第二回大統領選討論会の話になった。
私を含む留学生の関心は、主に外交関係であり、これは討論でなかなか語られない。
ましてや、アメリカ人有権者であるオーディエンスからの質問も少ない。彼らの関心は主に雇用、経済、保険制度、税金などである。
それはそうだ。アメリカの抱える「国内問題」は多数あり、これらは彼ら「アメリカ人」の生活に密接している重要な問題である。


こちらはこちらとして、候補者の外交関係ポリシーについて知らないといけないね、と話す。
と同時に私たちは彼らを選ぶことができない、というジレンマが浮かび上がる。
いくら立場を知ったところで、私たちは彼らを選べない。その権利はない。せめて、この点においてはこちらをサポートしたい、という話をする位である。

大統領選討論の話をしながら、イランから来た彼が感じる不安と、沖縄から来た私の感じる不安とフラストレーションに同じ波を感じた。私たちは彼らを選べない。


先日のセミナーで紛争や社会闘争のあとの和解のプロセスの議論になったとき、東ティモールの学生が言った忘れがたい一言が響く。

「我々は隣人を選べない」

だからどうにかうまくやっていく方法を探すしかないんだ…まだまだそこに溝があったとしても。一対一の関係を築いた、その後だからこそ。

彼の話の文脈は、南アフリカにおけるアパルトヘイトの克服と、東ティモール独立後のインドネシアとの関係であった。
彼らは長い凄惨な戦いの後、独立を勝ち取っている。
その傷はまだ癒えていないが、両者の溝を埋めて、より良い関係を築くことをどちらも目指している。


隣人は時に多大な存在感をもって立ち現れる。


果たして
このデモクラシーの国と本当に一対一の関係を築けているのだろうか。
あくまでも「発見者」のホスト国であるこの国の施設と、プログラムと、その恩恵に身を浸したこの環境で考えている。

また沖縄で起きた婦女暴行事件とオスプレイを巡る騒動、過去の事件事故についてのニュースを眺めながら。

2012/08/27

Here I am again

卒論を書き上げたらブログに少しずつ上げていこうと思っていたのに、すっかり半年以上放置して
しまった。

最後の投稿は2月。
3月には卒業し4月に留学と奨学金が正式に決定し、
5月から7月はひたすら未来の生活費と学費を稼ぐ日々だった。
それでも今より時間に余裕があったはずなのに、こんなに忙しい今にブログを再開することに決めた。

ということで、再びハワイにいる。

専攻はUrban and Regional Planningに変えた。日本語で言えば「都市・地域計画」なのだけれど、学部の内容ばそれ以上だ。人がある地理的空間に住まう上でのあらゆる要素を計画しそれを研究するフィールドである。計画は土地利用に限らず、大小を問わず地域コミュニティ内の経済・社会サービスをも計画する。計画するというよりはむしろデザインしているという感じだ。

Ethnic StudiesやSociologyをやっていたころとは関係ないようで、実は密接に関連している。
エスニシティやエスニック集団が生きていく上で土地性は欠かせない要素であるし、その土地をどう利用するのか、その土地でどのような文化が営まれまたどのような人がどのような権利を持って生きるのかを規定するのはむしろプランニングの分野である。土地があり、人が住んでいるからにはそこに社会がある。そんな社会の中で人が実際どう生きて行けるのかを考慮し、計画によって実現していくのがその目的である。

どんなに懐古主義に走っても、実際多くの人は民主主義社会のシステムを支持し、経済という綱を渡って明日を生きている。あるいは、新しい国家の中で自身の居場所を確保しようと試みる。
変わったしまったシステムの中で、エスニック集団を含む権利を追究し、実社会ともうまくバランスをとれるような生き方はできるのだろうか。

これは、コミュニティプランニングといわれているものに近い。
コミュニティプランニングの基本は様々な人のことばに耳をかたむけること。その大きな役割はポリシーを作り、実際の政策なりアクションを作ることである。その実現の手法も学ぶ。少しは実用的な学問に近づいたかとは思うが、まだこれでどこまで実際の仕事を得て役に立てるかどうかは未知である。しかし幅広い分野をカバーするカリキュラムの中で、少しずつその多分野の要素も学べるはずである。

経済にしろ交通にしろ開発にしろ、共通する問いは「ここでどう住まいたいのか」なのである。それを選ぶのは明らかにそこに住む人々である。できないことはない。では、なにがしたいのか。未来の形があれば、最適な方法を、またその限界を、その分野の専門家たちは教えてくれるだろう。

しかし「ここでどう住まいたいのか」は、人間の単純な夢どおりに実現せずまた自然との約束の上に続かないことがわかっている。それをまた、人と土地の間で考えている。

2012/02/20

「生活」と「観光」の空間

人が変われば前提が変わる、常識も目の付け所も変わる。
自分の前提と違う何かが共有されている空間ってなんだか居心地が悪いものだ。

ということで今日はあるレクチャーをたまらず基調講演だけで飛び出してきてしまった。
テーマはずばり「地域の<宝>を活かした観光とまちづくり/島おこし」であった。


最初に「何の資源もない島でやっていける産業は観光くらいでしょう」みたいな前提から入っていたので、<宝>って観光商品化できる<資源>のことなんだろうなあっていう前提が共有されていたわけですよね。産業ってイコール金になるってことですよね。いやあ、<宝>ってどういう存在なんでしょうか。

基調講演のサブタイトルは『「観光地」と「生活空間」の両立は可能か」興味深いですよね。つまりはゾーニングの話。観光のための土地と人々の生活のための土地をどう区分けるのか。
話者は観光地理学の教授らしく、ケーススタディとして4つの島を紹介してくれました。
屋久島と、瀬戸内海に浮かぶ島2つ、あとドイツの離島。
ドイツがいかに再開発時に制限を設けていたのかは興味深かった。戦前も100年以上観光地であったこの島は、統一される90年までは東ドイツの管轄だったので、大規模な開発はなかったんですね。だから統一されてから開発が本格的に始まるんだけど、その時にはもう既に環境コンシャスな国だったわけだから、ビーチを区切らないとか、建物が直接海岸につながっていてはいけないとか、自然海岸を守る細かなポリシーが決められていた。計画的な観光地がうまく機能している例だといえるでしょう。

ほかの日本の例は、なんだか観光地になるはずじゃなかった土地が人がいっぱい来るようになったもんで、どうにか対応に腐心しているといった感じ。屋久島が縄文杉だけに客が集まるもんで、どうにか分散しようとしているとか、計画都市以外の場所を埋めるように移住者が家を立てているので手がつけられないとかいう話は面白かった。移住ってのは、一種のフロンティア思想的なところがあるんでしょうかね。自分だけの楽園をどこかの土地でつくりだす。でも、その(地理的・社会的)コミュニティにはなかなか親和しない。最近は、土地の人々のほうにも歩み寄る人もいるんでしょうが、屋久島の例はそうではなかったみたい。

なぜなのか。※ここからは私の感想です
理由はもうひとつの前提の話。その前提は、「観光地」が日常のリアリティ=「生活」の空間と乖離している必要性。そしてそのために、「生活」の空間と「観光」の空間は区分けされている必要があるわけだ。
まあ、わからない話ではない。
だけどさ、そこに住んでいる人々の「生活」はそんなに忌避される必要があるわけ?
ここで前提とされている生活は「近代的」な彼らの「日常」に非常に近いものとして想像されているんですね。だから、避けたい。
そうでない「現地人」の「生活」は、また「独自性」のある、「非日常的」なものとして「宝」と呼ばれ商品化されていくのでしょうか?そこに賛同し、その価値とそこに付随する面倒なものまで抱え込める人が、その(地理的・社会的)コミュニティに溶けこんでいこうとするのでしょうか?

だれが何を<宝>と呼んでいるのか?

元々バカンスの習慣に馴染んでいるヨーロッパ諸国の人が、「観光地」として土地を切り離すこと、またその土地をポリシーで守ることは合理的な気がする。
それと、何らかの理由や<資源>を見出されて観光地化された土地とを区切ることはなんだか違うのではないか。
そこは、元々その土地の人々の「生活」にとって、「宗教」にとって、大切な土地ではなかったのか?という疑問が浮かぶ場合もしばしばあるからだ。
充分に近代化された現在の人々の「生活」や「日常」に、土地性というのはもはや関係ないのかも知れない。
でも、それを考えなおし、土地とどう永く付き合っていくか、テレビでも、ラジオでも伝えきれない<何か>を、<宝>を知っていたいというのがその土地に住むものの思いであり一種の役割ではなかったのか?

そう考えるとき、近代化された<日常>との対比によってしか立ち現れない<宝>って何だろう。はたして、それは同時に、空間によって区切ることができるものなのであろうか。区切ることで売り渡してしまえる<宝>とは、誰のものなのであろうかと、疑問に思って仕方がない。

<島人ぬ宝>はどこにあるのだろう?誰のためにあるのだろう?


基調講演だけ聞いて、あとは県内で活動している機関・企業の事業報告だったので、レジュメだけもらって別のレクチャーに行っちゃったのである。ゆえに、これらの機関・企業がやっていることについては、あくまでも言及していません…。(那覇のまちま~いなんかについては、面白い取り組みだと思うと同時に、それを地元の人や観光客に関係なく商品化しないと学べない状況があるのねーと…。私たちが発見する<宝>も、他人の杓子定規を内在化/借りてきたものによらなければ、いいのに…とか、考えたりしているのだけど、これ、別のはなし)

2012/02/02

土地を旅する


おもわずツイッターに大量に投稿してしまったので、ツイートを補足しつつブログにまとめておこうと思う。

琉球大学「人の移動と文学」レクチャーシリーズ第五回の、谷啓次郎氏のお話から戻ってきた。
テーマは「旅を書くことを考える」。彼はブラジル、ハワイ、ニューメキシコ、ニュージーランドに住み、学び、様々な土地を旅してきた作家であり詩人だ。

 彼は各々の人のイメージする「世界」は、その人の生きてきた「場所」の地図=Strangeography(Strange+Geography)を通してしかはっきり浮かび上がってこないものだと説明する。それぞれの思う「世界」はまさにその人の「世界」での経験であり、他の誰も所有することはできない。旅は自分の「世界」を広げていく行為である。しかし、「旅」はまた彼にとって後ろ向きな記述しかできない、「徒労」だと表現する。なぜか。

現在の私たちは「世界」に関する様々な情報に触れている。そしてそれを避けることは難しい。その世界のある土地の情報は、先入観として私たちの心の地図の一部となっている。その心の地図を広げて、目の前の土地と照らし合わせたとき、いかにそのイメージが過大な期待で塗りつぶされているかを知る。これが彼の言う「徒労」だ。「うまい」旅人は行く先々に異質な、既存のイメージにはない独自のきらきらしたものを見いだせるが、彼は、いやほとんどの旅人は、それのできない「下手な」旅人だ。
彼の著作の朗読からは、ガイドやパンフレットにある風景を探しに行き、西洋的な価値で切り取られた「商品」のみを「見るもの」とし、そこに自らの顔をはめこむ「観光」を前提とした「旅」への嫌悪感があった。同時に、しかしその方法以外に土地との結びつきを見つけることの探しきれないやるせなさ が伝わってきた。

そんな旅の表面で救い取れないものはまさにその土地の深みである。
その土地でその土地で生まれ育った人々がいかに生きているかまた、生きていくべきであったのかは、現在の「商品」とイメージの「消費」を促す「観光」を基礎とした旅には埋もれ、客人が訪ねるだけではそうそう知り得ないものなのである。

彼のテーマは批判的な土着性とクレオール性がテーマだ。土地とともに生きていく術をそこから学び取り、伝えていくことが今からの文学に必要だというのである。文学なら、世界に充満する物語を塗り替えるような物語を提供できる可能性があるとおっしゃっていた。
 私も彼に賛成する。そしてそんな文学はすでに土着民が持っているはずなのではないか。
土地と共に生きる術や物語を伝える、それはネイティブの文学を研究するひとつの意義でもある。 それを言葉と共に掘り起こすのもまた大事だろうな。言葉が運ぶその話者たちの世界への意味付けははかりしれない。

話を聞くたびにどうしても我が沖縄をあてはめずにいられない。
沖縄に移住者が増える、税金優遇によって企業が増える、みたいなきっかけから、土地ってなんだろう(ここでやる必要性って何?)と考えていた。その土地(自然環境、生態系)との行き方を知っている人には土地ってすごい意味があるのだろう。しかし、逆に都市化・均一化していく中においてはその環境というのは経済的な要因にしか依らないのかもしれない。
彼は現在世界で混血、混住が進んでいるというが、それはあくまでも経済的要因からに過ぎないと断言した。お金を稼ぐために、人が集まる。その内部で階層が生れ様々な人々がいるようにみえるがしかし他のグローバル・シティと何ら変わりはない…といったことであると解釈した。あくまでも地球のシステムではなく、人間のシステムの中での話なのである。

土地との暮らし方を知らない人々は、それこそ何かあった時、ノアの方舟に乗れなかった人々として流されていくのかも知れない…とちょっと思った。ハワイの暮らしの根底に流れる アロハ・アイナの精神は、きっとそこでは勝ち残るのだろう。 それがまさに今の地球で、席巻してる物語の結末で、文学が訴えようとしていることなのかもしれない。土地とのコミュニケーションを無視した人々は、いったいどうなるのか、知ったこっちゃない。
また、一度その土地と生きる術を失った我々はどうその知を取り戻せるのだろうか? 例えばうちなーぐちを継承する中で、たんなる言葉だけではなく、その内包する知も共に受け継がれるかどうかは、大事な点となると思う。
その点で、ハワイの人々が音や文字としての言葉を復活させただけでなく、そこに流れる知や生き方まで復活させようとしていることは、実に意義あることだと改めて感じた。


このような視点は、今後沖縄の経済発展や開発やというか沖縄で生きるということや世界に出向くというような場面に関わってくるだろうと思う。切り口が違うと、また違ったリアリティに気付けるかもしれない。

土地と民族について考えるのも面白いだろう。たとえば、世界に散らばる(といわれる)ユダヤの民や華僑・華人たちは、それこそ資本主義のシステムの中で形成された「民族」なのではないか? 沖縄という土地を離れてなおウチナーンチュを主張する人々の民族性はどうあるのか?私たちが共有していると思っている価値は、その昔沖縄という土地で形成された知とは異なるものなのか、どのような価値が選び取られているのか。残っていくものが果たしてどの土地に生きても共有される普遍的な価値だと言えるのか…?あるいは、その土地に住み込むことになった人々は、その流儀に従わざるを得ないと言えるだろうか。


長くなったのでこの辺で終わりとするが、おそらく思考は止まらないだろう。
まだ多く挙げても沖縄、ハワイ、日本、アメリカ、オーストラリア、カナダ程度しか知らない私の世界は、どこまで広げることができるだろうか。その中で、いかに土地とともに暮らす人々に会えるのだろうか。下手な旅人なりに、またどこかへ行きたくなってきた。

2012/01/20

そつろん

あっという間に2012年になってしまった。今年ほど先の予定が見えない年は今までなかった。
それでも色々なものに手を出すことにはなると思うので、しばらくは好奇心のままに生きていこうと思う。(こんなことを言ったらある人に「若いなあ…」と言われた。20代の無鉄砲さはいつまで続くかな?)
卒論の提出も大学院のアプリケーションもすみ、無理なバイトをすっぱり辞めてすっかり生活に余裕ができた。新しいバイトも始めた。そろそろ新しい勉強を始めたい。英語の勉強もまた再開しようと思う。今は就活も公務員の勉強をするのにもなんだか気持ちが中途半端でしょうがない。大学院の結果が出るのが遅くて3月末なので、それまではモラトリアムを満喫することになるかもしれない。いや、なるんだろうなあ。自分はこの先何をして生きていくんだろう。


 卒論が終わったことで、なんとなーく大学生活が終わったような気がしている。卒論はまさにこの大学生活4年間の総まとめになった。社会学への入り口、英語を基礎にハワイでの留学経験、そしてそれらをまとめる作業。4年間の全てがつながっている。沢山の人に助けていただいた。思っていた以上に、なんだかものすごく内容以上に身の詰まった思い入れのある一作となってしまった。

 論全体にながれるテーマは「Who is Uchinanchu? (誰がうちなーんちゅ?)」である。これは先行文献としてかなりお世話になったウェスリー・ウエウンテンさんと、新垣誠さんによるダイアログにはじまる。三線が弾ける弾けない、美浜を知ってる知ってない、テビチは好きか、出身は、両親の出身はどこか…とどちらがより「うちなーんちゅらしい」かを争う滑稽な寸劇である。私の問題意識は、まさにここから始まった。私は三線が弾けないし、うちなーぐちもしゃべれない。だったらテレビに映る、ハワイや南米で三線を弾き民謡を歌う彼らの方が、よっぽどうちなーんちゅらしく見える。果たして、本当にそうなのだろうか。
 実際ハワイに行ってみると、そこで見られる沖縄文化はとてもお祭り的であることがわかる。でも、人々は真剣に沖縄を学ぼうとしている。組織運営や継承や伝統へのこだわりだのごちゃごちゃはあるけど、みんな「オキナワ」という何かに関わることで、楽しそうにやっている。
そんなオキナワンやコミュニティのメンバーを見て、留学生は自身にうちなーんちゅらしさを問いかける。でも、一方でお祭り的なオキナワ文化にも疑問をもつ。「あれ?自分が知ってる沖縄はこれだけじゃない。もっと複雑で、もっとごたごただ。でも、彼らは確かに自分に足りない沖縄を知ってる。
対話は言葉ではない形で繰り返されている。


 また、ハワイが沖縄出身の学生に与える影響も大きい。ハワイアン・ルネッサンス(ハワイの文化復興。ほとんどなくなりかけていたハワイの文化を、ハワイアンの人々は様々な活動によって取り戻していった。)の話は、うちなーぐちを喋れない、沖縄の文化を余り知らない、政治的な立場の低い沖縄にとって、ヒントをもたらすものであった。ハワイと沖縄は文化のみならず米軍基地、社会的地位、歴史、観光、経済など様々な面でまた沖縄と類似していることに気づくのだ。
 そんなハワイやハワイの「オキナワ」を見てきた学生たちは、自身の中の「沖縄」を見つめ直し、今の自分と自分をとりまく「沖縄」についてどーにかこーにかもっと良い未来を目指してがんばっている。誰がうちなーんちゅかなんて何で決めるの?そんなことはわからないけれど、自分の信じるうちなーの未来に向かって、みんながんばっている。

簡単に言うと、こんな話である。

 ハワイの「オキナワ」は世界中に散らばる「オキナワ」のひとかけらに過ぎないし、それも日々変わっていく。ただ、これまでに、ハワイで、ハワイのオキナワンの方々と出会い、今頑張っている方々について、その人達の背景みたいなものを伝えたかった。「外に出ないと沖縄はわからない」なんて言うが、外で何を見てきたのか?外に行けない人にも伝えたかった。

 以上私の卒論の内容をざっとまとめてみた。これは私の留学体験記でもある。同時に、ハワイに行った誰かの、沖縄の外に行っただれかの留学体験のエッセンスが詰まっている。

 わかったことは、「私たち」は、何が本当かわからないけど共通のものとして「オキナワ」を紡ぎ続けているということ。今の世代の「ウチナーンチュ」たちが、何を選びとり何を伝えて、どんな沖縄を創り上げていくのか、ずっと見ていたいというのが、専ら最近の私の好奇心の所在だ。

 ウチナーンチュ大会でできた事務局に関わりながら、常に問いかけている。世界のウチナーンチュはみんな同じじゃない。それぞれの土地にはそれぞれのウチナーンチュがいる。つながって、どうするか、なんで、つながるのか?何がうちなーで、何が自分をウチナーンチュたらしめるのか、これはいつでも自分が決めることなのだ。でも、他の「ウチナーンチュ」に出会ったら、そこでお互いの「オキナワ」の交換が始まり、その対話は永遠に続く。

 とりあえず「誰がうちなーんちゅよ?」という問いかけに対して、私は「We are Okinawan」という答えを出しておいた。とりあえずの漠然とした答えだ。でも今はそう言うことしかできないと思う。オキナワのルーツがあって、そのエスニシティを自分のバックグラウンドとして選ぶのは自由。あとは、いかに自身をウチナーンチュたらしめているか、考えていく。自分との対話も終わらない。
 これがとりあえずの結論である。



 先が見えないのも、自分の選択と自分以外の人の選択が組み合わさってどうなるかわからないのも、何事も同じという話なのかもしれない。

 ウチナーンチュ大会と沖縄を紡いでいくことについては、また改めて書こうと思う。