職場のハラスメント対策の講座に出るのをすっかり忘れてしまった…という時に、ふと、学部時代に経営関係のクラスを取ったことを思い出した。
組織変革論かという名前だったのだけど、組織を変革する気は全く無いような授業だった。
ストーリーテリングを手法として紹介していたのはとてもいいと思うが、その利用法がとくに組織の文化を変えるような例ではなかった。むしろ、組織のやりかたについてこない人々を「巻き込む」とかその流れに乗せていくための使い方をしていたと思う。
例えば、ある日は企業で「怒られない」新人社員の話が出た(教員からね)。最近の新人は怒られられてなく、批判されるとすぐへこみ、辞めていく。けしからぬ。。。そんな話だ。
おそらく某フードチェーンの新人研修か何かの話の流れだったので、私は「いや、それ別に力で押してくるほうが問題だろ」と思っていたのである。しかし次に彼の口から出たのは「怒られ方模擬授業」への提案だった。「私はやる気まんまんですよ、たまには学生を気持ちよく叱ってみたいですね」と。ええええ、それでいいのか。それでいいのか。そんな企業文化に慣れてしまうのでいいのか、そこ、組織で変革すべき点なのではないですか。それハラスメントですよ。
そんなことはその場ではすぐに言葉にできなかったけれど、とりあえず「えええ」とだけは感じていた。まわりの経営専攻の学生は結構乗り気であった。えええ、それでいいの。
経営専攻が仮に米国で言うビジネススクールだったとしたら、この専攻の学生たちはいずれビジネス界のマネジメントポジションにつくことを前提(希望)に教育を受けているわけである。そんな学生たちが今の組織文化に批判的でない限り、彼らはそのままその組織文化に沿うように訓練され、組織のいいように人を「組織変革」するために教育の成果を利用するのではないのか。
それでーいいのかーーー。私はいやである。
ストーリーテリングの手法で紹介された例は、氷が溶けていることに気づいたペンギンが仲間に移動するか生活習慣を変えるかだかの提案をするみたいな話だったはずである。ストーリーテリングの手法を学ぶ前に、まずそのペンギンのアイデア、氷の変化に気づく洞察力とそれを危険だとみなす判断力が必要なのである。そんな批判的思考がその場には欠けていたのだ。
だって、「それハラスメントじゃん」って言える人がいないと、その組織文化消えないですから。その状態を「ハラスメントですよ」って、名前を与えてあげる、説明のフレームワークを与えてあげることが、ストーリーテリングになるはずである。
そのクラスではやけにイノベーションイノベーションと聞いたような覚えがある。(もしかしたら私のステレオタイプかもしれないが)でも現状に問題意識を持たない人からはとくに新しいものはでてこないと思うんだよね。イノベーションだかジョナサンだかジョブスだかジョンだかが現れるのを待つ前に、そんな思考の訓練をした方がよっぽど組織変革に必要なんじゃないのー。
とりあえず、数年前の違和感をどうにか文章にできて今は満足である。あの経営専攻の学生たちは今何をしているんだろう。
2014/12/14
2014/11/02
宮台真司が語る沖縄の生きる道「問題は基地反対の先にある」を読んで
宮台真司が語る沖縄の生きる道「問題は基地反対の先にある」を読んで
色々読みながら思うことがあるので、メモしてみる。時間に余裕のある方は、対応するインタビュー記事の箇所と一緒に読み進めるか、インタビュー記事を先に読むことをおすすめする。(リンクは一行目に貼ってあります。)
-沖縄がアイデンティティを取り戻した先に何があるのか-
「今日アイデンティティ・ベースの独立運動はありえない」=いわゆるナショナリズム=民族がその民族の国家を持つべきであるという考え、は今はありえない(現実的でない)という主張。
多民族化・多エスニック化が進んでいる中ではこの考えはちょっと古いのは確かにわかる。ひとつのアイデンティティが表に出ることで、そのアイデンティティに代表されない人々(離島や沖縄内での地方、移民、混血など)を無視することになるのもわかる。つまり、沖縄アイデンティティの主張は沖縄ナショナリズム(極端な例で言うと独立)と必ずしもダイレクトにつながっているものではない。確かに現実的にはそうであろうし、排他的な運動であってはいけないはずである。沖縄内アイデンティティは、それをツールとして何かの社会的問題を解決する手法にしかすぎないはずだ。宮台はこれについて彼の用語を使って説明するので、読み進める。
-翁長知事の<社会保守>について-
確かに沖縄がアイデンティティを持たないといけない理由は経済でも国境(道州制のこと?)のことでもない。ただし彼の<社会保守>的傾向が「観光価値を長期的に保全できる」という理由からだけではないはずである。これでは社会的保守の価値観を再び<経済保守>的な観点へ翻訳されてしまい、身も蓋もない。
「内地の<経済保守>と沖縄の<社会保守>が両立しない」というのは、沖縄が問題意識を持っているのは社会的問題であって、経済保証などでは簡単に解決しない。その経済的な解決案だけを提案してくる<経済保守>のアプローチでは、<社会保守>の考える問題は解決しない…ということなのではないか?
例えばしまくとぅば、観光価値のために言葉を守りたいのか?といえばそうではない。あれは私足しの文化であり財産である。文化を守りたいから普及運動があるのであって、消えていく言語に対して、補助金がもらえたとしても(経済的解決策)、文化は守れない。文化を守るには、教育や言語の使用・普及という社会的解決策が必要なのである。
-沖縄が経済的解決策を甘んじて受け入れてきた、という指摘からの質問-
これを宮台は、経済的解決策からの直接利益を受ける人々だけが周りにおり、反対の声を挙げづらい(もしくはそれで解決すると思いこんでいる)<社交>の範囲だけで交際関係が完結しているからであると説明する。
後半の<社会>の説明がちょっとクセモノである。<社会>がないとなぜ「広域ガバナンスができない」のだろうか。<社交>の世界からちょっと外に出て、<社会>から物事を見ると、その経済的解決策にまやかされていると気付き、<社会>のレベルでガバナンスができる、という論の展開かと思ったら、ちょっと違った。
2ページめ最後の段落で宮台は「<社会>の虚構を信じない沖縄が魅力的に見える」といいつつ、「オール沖縄」という<社会>をつくりあげている翁長氏の運動を「類例のチャンス」だという。
この後続く構造的問題についての説明も、沖縄が経済的解決策を甘んじて受け入れ、それが<社交>の範囲内でよしとされてきた、ということで説明がつくかと思う。この態度を撮り続けてきたことで、「カネで解決できる」という印象を与え続けてきてしまったわけですね。
-基地固定化への解決策-
1)住民投票-この日本の民主主義のシステムの中で、住民投票がいかに力を持つのが疑問である。さらに、<社交>のレベルにとどまる住民が必ずしも「反対」投票するとは限らない。ちなみにインタビューでは96年に一回行われたのみと言っているが、これは県民投票であり、97年にも「名護市における米軍のヘリポート基地建設の是非を問う市民投票」が行われている。(結果は反対52.6%であるが、法的拘束力はない。)以上から、住民投票が彼のいうほど有効かどうかは疑問である。
2)跡地利用計画についての熟議-跡地に対しての希望や未来を形作ることは、住民に基地のない地域のビジョンを現実感をもって所有させることができる。しかし、その利用計画はまた経済に囚われたものになるのではないか?という疑問がある。(例えば大型ショッピングセンター等、彼らがすぐに失うのは基地ではなく<経済保守>からのアメなのである。)
3)外交アクション-沖縄が外交できるのであればこれは理想的である。沖縄に外交権をください。そして日本側もその決定に従うようにしてください。しかし沖縄が「反対」したとして、その代替施設は一体どこへ行くのか。他の地域にも拒否権を与えないと不平等である。
「沖縄には日本政府の頭越しにアメリカ政府と交渉する力が今もある。」
とV 字滑走路を使う案に土建屋がアメリカと交渉して計画を変更した例を出している。これは事業の詳細の変更であって、そもそも基地をつくるかどうかのレベルの交渉の話ではない。
-大田県政の失敗に学ぶ-
上に書いたように住民投票への期待はちょっと疑問である。
跡地利用計画がコンサルへの丸投げであったという指摘には頷ける。このコンサルが計画作成にどのようなアプローチをとっていたかは別の話だけれど、住民の参加なしに計画へのオーナーシップ(所有感)は得られず、住民に基地返還をリアルなものとしての説得力に欠ける。
「国際都市形成構想」がフリートレードゾーンに固執し失敗したとあるが、結局これらの政策も、経済的解決策を求めてきたことが、他の経済的解決策(振興策)の前に倒れてしまった(そして新都心を作ってしまった)ことが背景あるのではとも考える。
-北谷開発結果への批判-
北谷の例が失敗例というのは半分賛成で半分疑問である。どこにでもある娯楽施設になってしまったのか?というと、そうでもないような気もするのだ。もはや沖縄のアイデンティティのひとかどとなってしまったアメリカ文化との融合が見て取れる。しかし内地からの出資で沖縄資本への経済的還元が小規模であることはたしかにそうだ。「本土並み化」で<社会保守>が不可能になる、という点については、半分賛成である。しかし、これは沖縄の新しいアイデンティティの一部のような気もしているのである。
-「沖縄が嫌いだ」という若者たち-
この指摘はおもしろい。<社会保守>がその社会的解決を求めて打ち出してきた解決策-しまくとくばや歴史-に対して嫌悪感を抱く若者たちについて。そりゃそうである。彼らにとってそんな要素は何一つ彼らのアイデンティティを形作らない。「年長世代と記憶を共有しない」とはまさにそのことである。戦争体験や基地からの社会問題だけに言えることではない。(基地関連の社会問題がもうないというわけではないと思うが、基地をポジティブに捉える若者は多い。)ただ、そんな社会を作り上げてしまったのは誰の責任だろうか。宮代の強調する<希望ベース>はではどのように沖縄にアプライするのだろうか。
-<ヤンキー>が地域社会をまわしている?-
私にはちょっとこの「ヤンキー的地方行政」が具体的にどのようなものかピンとこない。中央行政のツールとしての地域団体のこと?これについては彼の著作をよんだほうが文脈がとれそうなのでちょっと言及するのはやめておく。
中国からの脅威(論)が地方の右翼化・米国駐留の受け入れ容認を進めるか-
この質問に宮台は<教養の劣化>について質問する形で答えている、が正直なぜその議論がここで行われるかわかりにくい。あとの質問の流れからすると、おそらく容易に他国を敵視したりするのは教養不足でありそこからくる感情論である…ということであろうか。「反知性の時代」は個人的にも頷けることがたくさんあるが、この議論はだいぶ初めからそれた議題となってきた。
と、ここまでがインタビューに関する私の考察である。長くなってしまった。しかもこの記事続くんですね。
ここまで読んだ結果から言えば、<社会保守><経済保守>という言葉を使って、日本(政府)側、沖縄側の問題提起と解決のアプローチがずれていること、沖縄側が経済的解決策に甘んじてきたこと、そしてその結果「アイデンティティ形成」が難しく、世代間でずれのあるものになってしまったことを説明している。これらの点に関しては理解できる。
ただし、彼の上げている3つの解決策にはまだ疑問が残る。住民を含めた跡地利用の議論には大賛成だが、住民側の問題意識とアプローチが<経済保守>のそれと同じだと、第二・第三の新都心を作ってしまうにとどまるのではないだろうか。
彼が沖縄が<社会>をつくろうとしていることに対して積極的なのかどうかはまだわからない。しかし、ここで現れてきた翁長氏の<社会保守>的アプローチや、彼のつくろうとする「沖縄アイデンティティ」という<社会>がどのような解決策を持ち出してくるのか、その分析が見られるのかどうか次の記事に期待したい。ただし、繰り返すが、「沖縄アイデンティティ」を保つこと=観光価値の保持というのは、結局沖縄アイデンティティを経済の用語にすり替えてしまうことになるので、それは避けていただきたい。
色々読みながら思うことがあるので、メモしてみる。時間に余裕のある方は、対応するインタビュー記事の箇所と一緒に読み進めるか、インタビュー記事を先に読むことをおすすめする。(リンクは一行目に貼ってあります。)
-沖縄がアイデンティティを取り戻した先に何があるのか-
「今日アイデンティティ・ベースの独立運動はありえない」=いわゆるナショナリズム=民族がその民族の国家を持つべきであるという考え、は今はありえない(現実的でない)という主張。
多民族化・多エスニック化が進んでいる中ではこの考えはちょっと古いのは確かにわかる。ひとつのアイデンティティが表に出ることで、そのアイデンティティに代表されない人々(離島や沖縄内での地方、移民、混血など)を無視することになるのもわかる。つまり、沖縄アイデンティティの主張は沖縄ナショナリズム(極端な例で言うと独立)と必ずしもダイレクトにつながっているものではない。確かに現実的にはそうであろうし、排他的な運動であってはいけないはずである。沖縄内アイデンティティは、それをツールとして何かの社会的問題を解決する手法にしかすぎないはずだ。宮台はこれについて彼の用語を使って説明するので、読み進める。
-翁長知事の<社会保守>について-
確かに沖縄がアイデンティティを持たないといけない理由は経済でも国境(道州制のこと?)のことでもない。ただし彼の<社会保守>的傾向が「観光価値を長期的に保全できる」という理由からだけではないはずである。これでは社会的保守の価値観を再び<経済保守>的な観点へ翻訳されてしまい、身も蓋もない。
「内地の<経済保守>と沖縄の<社会保守>が両立しない」というのは、沖縄が問題意識を持っているのは社会的問題であって、経済保証などでは簡単に解決しない。その経済的な解決案だけを提案してくる<経済保守>のアプローチでは、<社会保守>の考える問題は解決しない…ということなのではないか?
例えばしまくとぅば、観光価値のために言葉を守りたいのか?といえばそうではない。あれは私足しの文化であり財産である。文化を守りたいから普及運動があるのであって、消えていく言語に対して、補助金がもらえたとしても(経済的解決策)、文化は守れない。文化を守るには、教育や言語の使用・普及という社会的解決策が必要なのである。
-沖縄が経済的解決策を甘んじて受け入れてきた、という指摘からの質問-
これを宮台は、経済的解決策からの直接利益を受ける人々だけが周りにおり、反対の声を挙げづらい(もしくはそれで解決すると思いこんでいる)<社交>の範囲だけで交際関係が完結しているからであると説明する。
後半の<社会>の説明がちょっとクセモノである。<社会>がないとなぜ「広域ガバナンスができない」のだろうか。<社交>の世界からちょっと外に出て、<社会>から物事を見ると、その経済的解決策にまやかされていると気付き、<社会>のレベルでガバナンスができる、という論の展開かと思ったら、ちょっと違った。
2ページめ最後の段落で宮台は「<社会>の虚構を信じない沖縄が魅力的に見える」といいつつ、「オール沖縄」という<社会>をつくりあげている翁長氏の運動を「類例のチャンス」だという。
この後続く構造的問題についての説明も、沖縄が経済的解決策を甘んじて受け入れ、それが<社交>の範囲内でよしとされてきた、ということで説明がつくかと思う。この態度を撮り続けてきたことで、「カネで解決できる」という印象を与え続けてきてしまったわけですね。
-基地固定化への解決策-
1)住民投票-この日本の民主主義のシステムの中で、住民投票がいかに力を持つのが疑問である。さらに、<社交>のレベルにとどまる住民が必ずしも「反対」投票するとは限らない。ちなみにインタビューでは96年に一回行われたのみと言っているが、これは県民投票であり、97年にも「名護市における米軍のヘリポート基地建設の是非を問う市民投票」が行われている。(結果は反対52.6%であるが、法的拘束力はない。)以上から、住民投票が彼のいうほど有効かどうかは疑問である。
2)跡地利用計画についての熟議-跡地に対しての希望や未来を形作ることは、住民に基地のない地域のビジョンを現実感をもって所有させることができる。しかし、その利用計画はまた経済に囚われたものになるのではないか?という疑問がある。(例えば大型ショッピングセンター等、彼らがすぐに失うのは基地ではなく<経済保守>からのアメなのである。)
3)外交アクション-沖縄が外交できるのであればこれは理想的である。沖縄に外交権をください。そして日本側もその決定に従うようにしてください。しかし沖縄が「反対」したとして、その代替施設は一体どこへ行くのか。他の地域にも拒否権を与えないと不平等である。
「沖縄には日本政府の頭越しにアメリカ政府と交渉する力が今もある。」
とV 字滑走路を使う案に土建屋がアメリカと交渉して計画を変更した例を出している。これは事業の詳細の変更であって、そもそも基地をつくるかどうかのレベルの交渉の話ではない。
-大田県政の失敗に学ぶ-
上に書いたように住民投票への期待はちょっと疑問である。
跡地利用計画がコンサルへの丸投げであったという指摘には頷ける。このコンサルが計画作成にどのようなアプローチをとっていたかは別の話だけれど、住民の参加なしに計画へのオーナーシップ(所有感)は得られず、住民に基地返還をリアルなものとしての説得力に欠ける。
「国際都市形成構想」がフリートレードゾーンに固執し失敗したとあるが、結局これらの政策も、経済的解決策を求めてきたことが、他の経済的解決策(振興策)の前に倒れてしまった(そして新都心を作ってしまった)ことが背景あるのではとも考える。
-北谷開発結果への批判-
北谷の例が失敗例というのは半分賛成で半分疑問である。どこにでもある娯楽施設になってしまったのか?というと、そうでもないような気もするのだ。もはや沖縄のアイデンティティのひとかどとなってしまったアメリカ文化との融合が見て取れる。しかし内地からの出資で沖縄資本への経済的還元が小規模であることはたしかにそうだ。「本土並み化」で<社会保守>が不可能になる、という点については、半分賛成である。しかし、これは沖縄の新しいアイデンティティの一部のような気もしているのである。
-「沖縄が嫌いだ」という若者たち-
この指摘はおもしろい。<社会保守>がその社会的解決を求めて打ち出してきた解決策-しまくとくばや歴史-に対して嫌悪感を抱く若者たちについて。そりゃそうである。彼らにとってそんな要素は何一つ彼らのアイデンティティを形作らない。「年長世代と記憶を共有しない」とはまさにそのことである。戦争体験や基地からの社会問題だけに言えることではない。(基地関連の社会問題がもうないというわけではないと思うが、基地をポジティブに捉える若者は多い。)ただ、そんな社会を作り上げてしまったのは誰の責任だろうか。宮代の強調する<希望ベース>はではどのように沖縄にアプライするのだろうか。
-<ヤンキー>が地域社会をまわしている?-
私にはちょっとこの「ヤンキー的地方行政」が具体的にどのようなものかピンとこない。中央行政のツールとしての地域団体のこと?これについては彼の著作をよんだほうが文脈がとれそうなのでちょっと言及するのはやめておく。
中国からの脅威(論)が地方の右翼化・米国駐留の受け入れ容認を進めるか-
この質問に宮台は<教養の劣化>について質問する形で答えている、が正直なぜその議論がここで行われるかわかりにくい。あとの質問の流れからすると、おそらく容易に他国を敵視したりするのは教養不足でありそこからくる感情論である…ということであろうか。「反知性の時代」は個人的にも頷けることがたくさんあるが、この議論はだいぶ初めからそれた議題となってきた。
と、ここまでがインタビューに関する私の考察である。長くなってしまった。しかもこの記事続くんですね。
ここまで読んだ結果から言えば、<社会保守><経済保守>という言葉を使って、日本(政府)側、沖縄側の問題提起と解決のアプローチがずれていること、沖縄側が経済的解決策に甘んじてきたこと、そしてその結果「アイデンティティ形成」が難しく、世代間でずれのあるものになってしまったことを説明している。これらの点に関しては理解できる。
ただし、彼の上げている3つの解決策にはまだ疑問が残る。住民を含めた跡地利用の議論には大賛成だが、住民側の問題意識とアプローチが<経済保守>のそれと同じだと、第二・第三の新都心を作ってしまうにとどまるのではないだろうか。
彼が沖縄が<社会>をつくろうとしていることに対して積極的なのかどうかはまだわからない。しかし、ここで現れてきた翁長氏の<社会保守>的アプローチや、彼のつくろうとする「沖縄アイデンティティ」という<社会>がどのような解決策を持ち出してくるのか、その分析が見られるのかどうか次の記事に期待したい。ただし、繰り返すが、「沖縄アイデンティティ」を保つこと=観光価値の保持というのは、結局沖縄アイデンティティを経済の用語にすり替えてしまうことになるので、それは避けていただきたい。
大学と職業と学歴とその解釈と意味
8月に投稿しようとしていた記事…
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気がつけば1年以上が過ぎていたりして、2014年ももう8月半ばに入ろうとしている。
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気がつけば1年以上が過ぎていたりして、2014年ももう8月半ばに入ろうとしている。
一日中パソコンの前でデスクワークをしながら、学校、アカデミアと仕事の連続性についてぼんやりと考えてみる。ここの学生は結構メジャーを変えるし、学部生生活を長年送ることにさほど抵抗がない。まずそれは新卒一括採用制度がないからであろうし、卒業まで4年以上かかったことに対してしつこく追求されたりもしないからだ(短い時間での卒業を勧められて入るけれど)。もちろん学校卒業後の特に職歴ともならない期間に何をしていたかなど気にされることもない。自分のペースで学生生活を送りながらアルバイトやインターンなどで経験値を上げている。企業側も関連のある学部の学生に、奨学金と無/有給インターンの機会を与えて投資としている。つまり大学における教育の信用に対する投資である。
実際自分が選んだ専攻がその後の就職にきちんと影響すること、(その特定の)学位をもつということが意味を持つこと、それが企業に評価され、かつ教育及び人材に投資がなされることが重要なのである。学生も自分の未来の為に専攻を選ぶ。入学時にそれは決めなくてもよいので、色々な分野をかじってみてから、自身の興味と関心をもって選択する時間があり、後から変えること可能である。日本にもこんなシステムの大学はあるが、システムはここでは問題ではない。
時々耳にする「産学官連携」とはちょっと違う。企業は投資すると言ったが、何も研究内容までに口出しをしてくるわけではない。彼らはあくまで学生に機会を与えるのみである。もちろん学生は安い労働力として企業にとっては使い勝手が良いかもしれない。しかし学生はきちんとその職についてトレーニングされることが前提である。そしてインターンはそのまま学生の経験としてその後評価される。大学の専門課程でトレーニングされ、企業の中でトレーニングされる。大学に行き、その学位を取る意味がちゃんとある。日本のエンジニア系など実学の学生に対してこのような企業からのサポートはあるのだろうか。文系はちょっとむずかしいのかもしれないけど、例えばハワイアンの学生への援助、地元出身学生への援助など、それでも特定の価値を重んずる企業および団体からのサポートはある。
日本の大学は入るまでが大変で、アメリカの大学は入ってからが大変、と聞いたことがある。これは実際本当だと思ったし、大学の価値がまるで違うということを表している。日本もアメリカも結構な学歴社会だと思うが、その大学に入ったことが評価されるか、その大学で学業をやり遂げたことが評価されるかは大きな違いだ。加えて、アカデミア以外の場所においても、学位が重要視されるのは、アメリカの方ではなかろうか。「○○職に就くには最低でも修士号が必要」なんて日本で聞いたことがまだない。
昨日タコライスを食べながら、ルームメイトが韓国の教育事情について少し教えてくれた。韓国でも同じく(有名)大学に入るまでが大変であり、その後ももちろん勉強はするのだが、学位はとりあえず取っておくもので、就職のためにはGREやTOEFLなどの他の資格等の取得にエネルギーをそそがねばならないらしい(特に就職後英語を使う機会がなかろうと)。大学とその後のつながりがここでもずれている。
昨日タコライスを食べながら、ルームメイトが韓国の教育事情について少し教えてくれた。韓国でも同じく(有名)大学に入るまでが大変であり、その後ももちろん勉強はするのだが、学位はとりあえず取っておくもので、就職のためにはGREやTOEFLなどの他の資格等の取得にエネルギーをそそがねばならないらしい(特に就職後英語を使う機会がなかろうと)。大学とその後のつながりがここでもずれている。
もし大学教育がもう少し機能していて、プロフェッショナルとしてのトレーニングとして社会に受け入れられるのなら、社会のあちこちに本当にその道に通じた人が働けるのになあ、と思うのである。
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とここまで書いたのはいいけれど、これはあくまでも研究機関としての大学を前提としていて、大学が職業訓練学校になれば良いという思いで書いたわけではない。
学術が実際の社会に貢献できる体制、そのパイプがつながっていて、考える方(研究)と実践する方の行き来が簡単にできるような状態を想定していたものである。たとえば、社会人が大学(院)に帰ってきて学位を取ることは、キャリアアップの一つの道である。学位をとった後は、管理職的なポジションにつきやすくなる。また、異なった分野に挑戦することで、キャリアの方向転換および発展も可能である。最近はMBA等日本でもよく聞くようになったと思うが、こういう意味で学歴・’学位が評価されるのは、研究の価値をキャリアにおいても認められるからである。
考える人がいてこそ新しいアイデアが生まれて、そんな人が社会を動かす地位につけるからこそ、研究は活かせる道があるのになあと、最近の日本の大学政策の方針を見ながらまた考えていた。
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とここまで書いたのはいいけれど、これはあくまでも研究機関としての大学を前提としていて、大学が職業訓練学校になれば良いという思いで書いたわけではない。
学術が実際の社会に貢献できる体制、そのパイプがつながっていて、考える方(研究)と実践する方の行き来が簡単にできるような状態を想定していたものである。たとえば、社会人が大学(院)に帰ってきて学位を取ることは、キャリアアップの一つの道である。学位をとった後は、管理職的なポジションにつきやすくなる。また、異なった分野に挑戦することで、キャリアの方向転換および発展も可能である。最近はMBA等日本でもよく聞くようになったと思うが、こういう意味で学歴・’学位が評価されるのは、研究の価値をキャリアにおいても認められるからである。
考える人がいてこそ新しいアイデアが生まれて、そんな人が社会を動かす地位につけるからこそ、研究は活かせる道があるのになあと、最近の日本の大学政策の方針を見ながらまた考えていた。
2013/04/06
Lazy Saturday
I know I need to write my essay rather than a blog post. Essay must have been far more important than this blog. I knew, I knew it. But you know, sometimes I need to demonstrate a free writing to turn my writing switch on.
Although I don't know what to begin with. It is already April 2013, new year, the Spring semester is almost ending. (I knew I need to tackle on my final project asap, too. Oh well.) Since I came back to this Aloha island, everything has been so surreal. There were several really serious tough happenings in my life last semester. Some of them were quire critical for my life and surely affects my future for decades. Life happens. But life goes on. I gotta live my life. On the other hand, since passed lunar new year, I believe, things around me is quite surreal in the different way. I still feel like my passed spring break was just a dream. Well, even put the fact besides that the Big island never betray me, it is still dreamy and unreal. I am sure I am going back to the same place again, and I will experience an another kind of awesomeness. It is quite strange that I still feel like my spring break has not yet over. That's a contradiction. I knew it. Yet still, I cannot upload my pictures from spring break on Facebook since I feel like it is telling myself that the amazing time has over. So, I might be still dreaming and I don't have any idea to prove it anyway.
Perhaps I might be able to say that I am really thankful for those who around me, stand with me, jam with me and share stories with me. I really feel like I am in the right place, at the right time, with right people. I don't know what future lead me where though I am having one of the best days in my life. So far, so good.
After this semester, I am going back to Okinawa for a month. I hope I could relax, reunite with my favorite people, and get some valuable information and questions from my island. I am also excited to going to Singapore which has been quite an interesting place for me for a long time, culture wise, politic wise, landscape wise, well, pretty much in every aspects. I am visiting there with my lovely phD friend who is presenting in her first ever solo international conference. It is such an honor to be there and share the significant moment together. We sure will have fun and great experience. I will never get such opportunity again in my life in the future...everything has been so special these days.
Things happening around me recently energizes and encourage me so much. Still lot to think, sometime get confused, sometime be relieved. This is my time for nurture my life. I might be getting closer to my own truth, hopefully.
Although I don't know what to begin with. It is already April 2013, new year, the Spring semester is almost ending. (I knew I need to tackle on my final project asap, too. Oh well.) Since I came back to this Aloha island, everything has been so surreal. There were several really serious tough happenings in my life last semester. Some of them were quire critical for my life and surely affects my future for decades. Life happens. But life goes on. I gotta live my life. On the other hand, since passed lunar new year, I believe, things around me is quite surreal in the different way. I still feel like my passed spring break was just a dream. Well, even put the fact besides that the Big island never betray me, it is still dreamy and unreal. I am sure I am going back to the same place again, and I will experience an another kind of awesomeness. It is quite strange that I still feel like my spring break has not yet over. That's a contradiction. I knew it. Yet still, I cannot upload my pictures from spring break on Facebook since I feel like it is telling myself that the amazing time has over. So, I might be still dreaming and I don't have any idea to prove it anyway.
Perhaps I might be able to say that I am really thankful for those who around me, stand with me, jam with me and share stories with me. I really feel like I am in the right place, at the right time, with right people. I don't know what future lead me where though I am having one of the best days in my life. So far, so good.
After this semester, I am going back to Okinawa for a month. I hope I could relax, reunite with my favorite people, and get some valuable information and questions from my island. I am also excited to going to Singapore which has been quite an interesting place for me for a long time, culture wise, politic wise, landscape wise, well, pretty much in every aspects. I am visiting there with my lovely phD friend who is presenting in her first ever solo international conference. It is such an honor to be there and share the significant moment together. We sure will have fun and great experience. I will never get such opportunity again in my life in the future...everything has been so special these days.
Things happening around me recently energizes and encourage me so much. Still lot to think, sometime get confused, sometime be relieved. This is my time for nurture my life. I might be getting closer to my own truth, hopefully.
2012/10/16
Where East mingles with West and even South and North
先週の月曜日はコロンブスデー(Columbus day)という祝日だった。発見者の日(Discoverer's day)と呼ばれたりもする。「コロンブス」が「新大陸」を「発見」した日なのである。いや、インディアンがコロンブスを「発見」した日でもある。このように、この休日の解釈は色々議論が分かれている。ちなみにハワイ大学ではだいたいの授業が通常通り行われ、私の住んでいる東西センターの寮では後者の表現が使われた。(ただしこのセンターは国のものなので、職員は休日だったようだ。ハワイアンがジェームス・クックを「発見」した日はいつなのだろうか…)
さて、ところで東西センター(East-West Center)は特別な場所だ。名前の通り、アジア、アメリカ、アフリカ、中東、太平洋諸国、オセアニア等世界中から学生が集まり共に生活している。東、西というネーミングは東洋と西洋の対比を含む表現であるのでちょっと疑問符なのだけれど、東西の枠を越えて、多様性を重視したプログラムを提供している。お陰さまで沢山の人に合うことができ、ここに住んでいるだけでもハワイに来た意義があったと思えるくらいだ。
学生たちはほとんど全員が修士、博士ないし研究者であるため、政治的でアカデミックな会話は日常茶飯事だ。(そして文字の与える印象通り、それは主にキッチンで行われる。)最近の主な話題はアメリカ大統領選である。単にその国の一部にいるからという理由だけではなく、この結果が大きく母国にも影響するからである。
今日もキッチンでイランからの学生と第二回大統領選討論会の話になった。
私を含む留学生の関心は、主に外交関係であり、これは討論でなかなか語られない。
ましてや、アメリカ人有権者であるオーディエンスからの質問も少ない。彼らの関心は主に雇用、経済、保険制度、税金などである。
それはそうだ。アメリカの抱える「国内問題」は多数あり、これらは彼ら「アメリカ人」の生活に密接している重要な問題である。
こちらはこちらとして、候補者の外交関係ポリシーについて知らないといけないね、と話す。
と同時に私たちは彼らを選ぶことができない、というジレンマが浮かび上がる。
いくら立場を知ったところで、私たちは彼らを選べない。その権利はない。せめて、この点においてはこちらをサポートしたい、という話をする位である。
大統領選討論の話をしながら、イランから来た彼が感じる不安と、沖縄から来た私の感じる不安とフラストレーションに同じ波を感じた。私たちは彼らを選べない。
先日のセミナーで紛争や社会闘争のあとの和解のプロセスの議論になったとき、東ティモールの学生が言った忘れがたい一言が響く。
「我々は隣人を選べない」
だからどうにかうまくやっていく方法を探すしかないんだ…まだまだそこに溝があったとしても。一対一の関係を築いた、その後だからこそ。
彼の話の文脈は、南アフリカにおけるアパルトヘイトの克服と、東ティモール独立後のインドネシアとの関係であった。
彼らは長い凄惨な戦いの後、独立を勝ち取っている。
その傷はまだ癒えていないが、両者の溝を埋めて、より良い関係を築くことをどちらも目指している。
隣人は時に多大な存在感をもって立ち現れる。
果たして
このデモクラシーの国と本当に一対一の関係を築けているのだろうか。
あくまでも「発見者」のホスト国であるこの国の施設と、プログラムと、その恩恵に身を浸したこの環境で考えている。
また沖縄で起きた婦女暴行事件とオスプレイを巡る騒動、過去の事件事故についてのニュースを眺めながら。
さて、ところで東西センター(East-West Center)は特別な場所だ。名前の通り、アジア、アメリカ、アフリカ、中東、太平洋諸国、オセアニア等世界中から学生が集まり共に生活している。東、西というネーミングは東洋と西洋の対比を含む表現であるのでちょっと疑問符なのだけれど、東西の枠を越えて、多様性を重視したプログラムを提供している。お陰さまで沢山の人に合うことができ、ここに住んでいるだけでもハワイに来た意義があったと思えるくらいだ。
学生たちはほとんど全員が修士、博士ないし研究者であるため、政治的でアカデミックな会話は日常茶飯事だ。(そして文字の与える印象通り、それは主にキッチンで行われる。)最近の主な話題はアメリカ大統領選である。単にその国の一部にいるからという理由だけではなく、この結果が大きく母国にも影響するからである。
今日もキッチンでイランからの学生と第二回大統領選討論会の話になった。
私を含む留学生の関心は、主に外交関係であり、これは討論でなかなか語られない。
ましてや、アメリカ人有権者であるオーディエンスからの質問も少ない。彼らの関心は主に雇用、経済、保険制度、税金などである。
それはそうだ。アメリカの抱える「国内問題」は多数あり、これらは彼ら「アメリカ人」の生活に密接している重要な問題である。
こちらはこちらとして、候補者の外交関係ポリシーについて知らないといけないね、と話す。
と同時に私たちは彼らを選ぶことができない、というジレンマが浮かび上がる。
いくら立場を知ったところで、私たちは彼らを選べない。その権利はない。せめて、この点においてはこちらをサポートしたい、という話をする位である。
大統領選討論の話をしながら、イランから来た彼が感じる不安と、沖縄から来た私の感じる不安とフラストレーションに同じ波を感じた。私たちは彼らを選べない。
先日のセミナーで紛争や社会闘争のあとの和解のプロセスの議論になったとき、東ティモールの学生が言った忘れがたい一言が響く。
「我々は隣人を選べない」
だからどうにかうまくやっていく方法を探すしかないんだ…まだまだそこに溝があったとしても。一対一の関係を築いた、その後だからこそ。
彼の話の文脈は、南アフリカにおけるアパルトヘイトの克服と、東ティモール独立後のインドネシアとの関係であった。
彼らは長い凄惨な戦いの後、独立を勝ち取っている。
その傷はまだ癒えていないが、両者の溝を埋めて、より良い関係を築くことをどちらも目指している。
隣人は時に多大な存在感をもって立ち現れる。
果たして
このデモクラシーの国と本当に一対一の関係を築けているのだろうか。
あくまでも「発見者」のホスト国であるこの国の施設と、プログラムと、その恩恵に身を浸したこの環境で考えている。
また沖縄で起きた婦女暴行事件とオスプレイを巡る騒動、過去の事件事故についてのニュースを眺めながら。
2012/08/27
Here I am again
卒論を書き上げたらブログに少しずつ上げていこうと思っていたのに、すっかり半年以上放置して
しまった。
最後の投稿は2月。
3月には卒業し4月に留学と奨学金が正式に決定し、
5月から7月はひたすら未来の生活費と学費を稼ぐ日々だった。
それでも今より時間に余裕があったはずなのに、こんなに忙しい今にブログを再開することに決めた。
ということで、再びハワイにいる。
専攻はUrban and Regional Planningに変えた。日本語で言えば「都市・地域計画」なのだけれど、学部の内容ばそれ以上だ。人がある地理的空間に住まう上でのあらゆる要素を計画しそれを研究するフィールドである。計画は土地利用に限らず、大小を問わず地域コミュニティ内の経済・社会サービスをも計画する。計画するというよりはむしろデザインしているという感じだ。
Ethnic StudiesやSociologyをやっていたころとは関係ないようで、実は密接に関連している。
エスニシティやエスニック集団が生きていく上で土地性は欠かせない要素であるし、その土地をどう利用するのか、その土地でどのような文化が営まれまたどのような人がどのような権利を持って生きるのかを規定するのはむしろプランニングの分野である。土地があり、人が住んでいるからにはそこに社会がある。そんな社会の中で人が実際どう生きて行けるのかを考慮し、計画によって実現していくのがその目的である。
どんなに懐古主義に走っても、実際多くの人は民主主義社会のシステムを支持し、経済という綱を渡って明日を生きている。あるいは、新しい国家の中で自身の居場所を確保しようと試みる。
変わったしまったシステムの中で、エスニック集団を含む権利を追究し、実社会ともうまくバランスをとれるような生き方はできるのだろうか。
これは、コミュニティプランニングといわれているものに近い。
コミュニティプランニングの基本は様々な人のことばに耳をかたむけること。その大きな役割はポリシーを作り、実際の政策なりアクションを作ることである。その実現の手法も学ぶ。少しは実用的な学問に近づいたかとは思うが、まだこれでどこまで実際の仕事を得て役に立てるかどうかは未知である。しかし幅広い分野をカバーするカリキュラムの中で、少しずつその多分野の要素も学べるはずである。
経済にしろ交通にしろ開発にしろ、共通する問いは「ここでどう住まいたいのか」なのである。それを選ぶのは明らかにそこに住む人々である。できないことはない。では、なにがしたいのか。未来の形があれば、最適な方法を、またその限界を、その分野の専門家たちは教えてくれるだろう。
しかし「ここでどう住まいたいのか」は、人間の単純な夢どおりに実現せずまた自然との約束の上に続かないことがわかっている。それをまた、人と土地の間で考えている。
2012/02/20
「生活」と「観光」の空間
人が変われば前提が変わる、常識も目の付け所も変わる。
自分の前提と違う何かが共有されている空間ってなんだか居心地が悪いものだ。
ということで今日はあるレクチャーをたまらず基調講演だけで飛び出してきてしまった。
テーマはずばり「地域の<宝>を活かした観光とまちづくり/島おこし」であった。
最初に「何の資源もない島でやっていける産業は観光くらいでしょう」みたいな前提から入っていたので、<宝>って観光商品化できる<資源>のことなんだろうなあっていう前提が共有されていたわけですよね。産業ってイコール金になるってことですよね。いやあ、<宝>ってどういう存在なんでしょうか。
基調講演のサブタイトルは『「観光地」と「生活空間」の両立は可能か」興味深いですよね。つまりはゾーニングの話。観光のための土地と人々の生活のための土地をどう区分けるのか。
話者は観光地理学の教授らしく、ケーススタディとして4つの島を紹介してくれました。
屋久島と、瀬戸内海に浮かぶ島2つ、あとドイツの離島。
ドイツがいかに再開発時に制限を設けていたのかは興味深かった。戦前も100年以上観光地であったこの島は、統一される90年までは東ドイツの管轄だったので、大規模な開発はなかったんですね。だから統一されてから開発が本格的に始まるんだけど、その時にはもう既に環境コンシャスな国だったわけだから、ビーチを区切らないとか、建物が直接海岸につながっていてはいけないとか、自然海岸を守る細かなポリシーが決められていた。計画的な観光地がうまく機能している例だといえるでしょう。
ほかの日本の例は、なんだか観光地になるはずじゃなかった土地が人がいっぱい来るようになったもんで、どうにか対応に腐心しているといった感じ。屋久島が縄文杉だけに客が集まるもんで、どうにか分散しようとしているとか、計画都市以外の場所を埋めるように移住者が家を立てているので手がつけられないとかいう話は面白かった。移住ってのは、一種のフロンティア思想的なところがあるんでしょうかね。自分だけの楽園をどこかの土地でつくりだす。でも、その(地理的・社会的)コミュニティにはなかなか親和しない。最近は、土地の人々のほうにも歩み寄る人もいるんでしょうが、屋久島の例はそうではなかったみたい。
なぜなのか。※ここからは私の感想です
理由はもうひとつの前提の話。その前提は、「観光地」が日常のリアリティ=「生活」の空間と乖離している必要性。そしてそのために、「生活」の空間と「観光」の空間は区分けされている必要があるわけだ。
まあ、わからない話ではない。
だけどさ、そこに住んでいる人々の「生活」はそんなに忌避される必要があるわけ?
ここで前提とされている生活は「近代的」な彼らの「日常」に非常に近いものとして想像されているんですね。だから、避けたい。
そうでない「現地人」の「生活」は、また「独自性」のある、「非日常的」なものとして「宝」と呼ばれ商品化されていくのでしょうか?そこに賛同し、その価値とそこに付随する面倒なものまで抱え込める人が、その(地理的・社会的)コミュニティに溶けこんでいこうとするのでしょうか?
だれが何を<宝>と呼んでいるのか?
元々バカンスの習慣に馴染んでいるヨーロッパ諸国の人が、「観光地」として土地を切り離すこと、またその土地をポリシーで守ることは合理的な気がする。
それと、何らかの理由や<資源>を見出されて観光地化された土地とを区切ることはなんだか違うのではないか。
そこは、元々その土地の人々の「生活」にとって、「宗教」にとって、大切な土地ではなかったのか?という疑問が浮かぶ場合もしばしばあるからだ。
充分に近代化された現在の人々の「生活」や「日常」に、土地性というのはもはや関係ないのかも知れない。
でも、それを考えなおし、土地とどう永く付き合っていくか、テレビでも、ラジオでも伝えきれない<何か>を、<宝>を知っていたいというのがその土地に住むものの思いであり一種の役割ではなかったのか?
そう考えるとき、近代化された<日常>との対比によってしか立ち現れない<宝>って何だろう。はたして、それは同時に、空間によって区切ることができるものなのであろうか。区切ることで売り渡してしまえる<宝>とは、誰のものなのであろうかと、疑問に思って仕方がない。
<島人ぬ宝>はどこにあるのだろう?誰のためにあるのだろう?
基調講演だけ聞いて、あとは県内で活動している機関・企業の事業報告だったので、レジュメだけもらって別のレクチャーに行っちゃったのである。ゆえに、これらの機関・企業がやっていることについては、あくまでも言及していません…。(那覇のまちま~いなんかについては、面白い取り組みだと思うと同時に、それを地元の人や観光客に関係なく商品化しないと学べない状況があるのねーと…。私たちが発見する<宝>も、他人の杓子定規を内在化/借りてきたものによらなければ、いいのに…とか、考えたりしているのだけど、これ、別のはなし)
<島人ぬ宝>はどこにあるのだろう?誰のためにあるのだろう?
基調講演だけ聞いて、あとは県内で活動している機関・企業の事業報告だったので、レジュメだけもらって別のレクチャーに行っちゃったのである。ゆえに、これらの機関・企業がやっていることについては、あくまでも言及していません…。(那覇のまちま~いなんかについては、面白い取り組みだと思うと同時に、それを地元の人や観光客に関係なく商品化しないと学べない状況があるのねーと…。私たちが発見する<宝>も、他人の杓子定規を内在化/借りてきたものによらなければ、いいのに…とか、考えたりしているのだけど、これ、別のはなし)
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