2012/02/20

「生活」と「観光」の空間

人が変われば前提が変わる、常識も目の付け所も変わる。
自分の前提と違う何かが共有されている空間ってなんだか居心地が悪いものだ。

ということで今日はあるレクチャーをたまらず基調講演だけで飛び出してきてしまった。
テーマはずばり「地域の<宝>を活かした観光とまちづくり/島おこし」であった。


最初に「何の資源もない島でやっていける産業は観光くらいでしょう」みたいな前提から入っていたので、<宝>って観光商品化できる<資源>のことなんだろうなあっていう前提が共有されていたわけですよね。産業ってイコール金になるってことですよね。いやあ、<宝>ってどういう存在なんでしょうか。

基調講演のサブタイトルは『「観光地」と「生活空間」の両立は可能か」興味深いですよね。つまりはゾーニングの話。観光のための土地と人々の生活のための土地をどう区分けるのか。
話者は観光地理学の教授らしく、ケーススタディとして4つの島を紹介してくれました。
屋久島と、瀬戸内海に浮かぶ島2つ、あとドイツの離島。
ドイツがいかに再開発時に制限を設けていたのかは興味深かった。戦前も100年以上観光地であったこの島は、統一される90年までは東ドイツの管轄だったので、大規模な開発はなかったんですね。だから統一されてから開発が本格的に始まるんだけど、その時にはもう既に環境コンシャスな国だったわけだから、ビーチを区切らないとか、建物が直接海岸につながっていてはいけないとか、自然海岸を守る細かなポリシーが決められていた。計画的な観光地がうまく機能している例だといえるでしょう。

ほかの日本の例は、なんだか観光地になるはずじゃなかった土地が人がいっぱい来るようになったもんで、どうにか対応に腐心しているといった感じ。屋久島が縄文杉だけに客が集まるもんで、どうにか分散しようとしているとか、計画都市以外の場所を埋めるように移住者が家を立てているので手がつけられないとかいう話は面白かった。移住ってのは、一種のフロンティア思想的なところがあるんでしょうかね。自分だけの楽園をどこかの土地でつくりだす。でも、その(地理的・社会的)コミュニティにはなかなか親和しない。最近は、土地の人々のほうにも歩み寄る人もいるんでしょうが、屋久島の例はそうではなかったみたい。

なぜなのか。※ここからは私の感想です
理由はもうひとつの前提の話。その前提は、「観光地」が日常のリアリティ=「生活」の空間と乖離している必要性。そしてそのために、「生活」の空間と「観光」の空間は区分けされている必要があるわけだ。
まあ、わからない話ではない。
だけどさ、そこに住んでいる人々の「生活」はそんなに忌避される必要があるわけ?
ここで前提とされている生活は「近代的」な彼らの「日常」に非常に近いものとして想像されているんですね。だから、避けたい。
そうでない「現地人」の「生活」は、また「独自性」のある、「非日常的」なものとして「宝」と呼ばれ商品化されていくのでしょうか?そこに賛同し、その価値とそこに付随する面倒なものまで抱え込める人が、その(地理的・社会的)コミュニティに溶けこんでいこうとするのでしょうか?

だれが何を<宝>と呼んでいるのか?

元々バカンスの習慣に馴染んでいるヨーロッパ諸国の人が、「観光地」として土地を切り離すこと、またその土地をポリシーで守ることは合理的な気がする。
それと、何らかの理由や<資源>を見出されて観光地化された土地とを区切ることはなんだか違うのではないか。
そこは、元々その土地の人々の「生活」にとって、「宗教」にとって、大切な土地ではなかったのか?という疑問が浮かぶ場合もしばしばあるからだ。
充分に近代化された現在の人々の「生活」や「日常」に、土地性というのはもはや関係ないのかも知れない。
でも、それを考えなおし、土地とどう永く付き合っていくか、テレビでも、ラジオでも伝えきれない<何か>を、<宝>を知っていたいというのがその土地に住むものの思いであり一種の役割ではなかったのか?

そう考えるとき、近代化された<日常>との対比によってしか立ち現れない<宝>って何だろう。はたして、それは同時に、空間によって区切ることができるものなのであろうか。区切ることで売り渡してしまえる<宝>とは、誰のものなのであろうかと、疑問に思って仕方がない。

<島人ぬ宝>はどこにあるのだろう?誰のためにあるのだろう?


基調講演だけ聞いて、あとは県内で活動している機関・企業の事業報告だったので、レジュメだけもらって別のレクチャーに行っちゃったのである。ゆえに、これらの機関・企業がやっていることについては、あくまでも言及していません…。(那覇のまちま~いなんかについては、面白い取り組みだと思うと同時に、それを地元の人や観光客に関係なく商品化しないと学べない状況があるのねーと…。私たちが発見する<宝>も、他人の杓子定規を内在化/借りてきたものによらなければ、いいのに…とか、考えたりしているのだけど、これ、別のはなし)

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