2011/12/08

Pearl Harborのおもいで#3

さて、パールハーバーから70年とは言うものの、パールハーバーはまだ存在し続けています。
そこは、真珠湾攻撃から太平洋戦争までのアメリカの記憶を保存する土地であると同時に、現在も多数の軍艦が停泊する現役の軍港でもあるのです。一度でもそこを訪れたことのある人は、持ち込む荷物が限られていること、写真をとることが禁じられた橋などを覚えていることでしょう。アリゾナ記念館は今も流れ出る船体の油を見せてくれるように、各博物館が現在も進む技術や米軍人への誇りを主張するように、その全ては終わってしまった過去の記憶ではありません。

「リメンバー・パールハーバー」と言われるとき、未来の人々は何を思い出すようになるのでしょうか。


さて、もうひとつだけ思い出してほしいことがあります。
それはパールハーバーという土地の歴史です。
元々、パールハーバーは、「プウロア」(長い丘)もしくは「ワイ モミ」(真珠の水)と呼ばれ、魚を飼う沼や神殿のある土地でした。話はハワイ王国が米国との間で揺れる1876年まで遡ります。

その頃ハワイの砂糖プランテーションは、他の国が砂糖を自給できるようになっていたため、市民戦争で砂糖が不足しているアメリカを唯一のマーケットとしていました。そのアメリカへの税金の優遇処置と引換えにパールハーバーを譲る条約を結ぶようアメリカに迫られ、ハワイ内の政情はこの条約の受諾可否で揺れていました。これはハワイ占領への第一歩だという訴えもあったようです。
結局1876年9月に1886年までという条件付きでこの条約を受け入れたのですが、実はこの約束の中には、パールハーバーの借用は含まれていなかったようです。(後に書き換えられたと聞いています)
またこの内容は結局プランテーションの持ち主である白人(主にアメリカ人)オーナーの利益になるものでした。
この後力をつけ始めた財界の人々により、当時のカラカウア政権は、武力によって米国よりの新しい憲法にむりやりサインさせられ、アメリカの傀儡政権になってしまいました。それでも王は世界をめぐり王国の存在をアピールし、イオラニ宮殿をつくり、ハワイの作り、また太平洋の島々と協力体制を築こうとしました。しかし王は病にかかり、サンフランシスコで「休養」の途中で帰らぬ人となってしまいました。
これが1891年です。それを継いだ最後の女王リリウオカラニも王国存続のための努力はしましたが、結果はみなさんが知っているとおりです。
その間、パールハーバーは、物流の拠点になっていました。

1896年、アメリカはスペインと、フィリピンで戦っていました。

1896年、ハワイのアメリカ統合の条約が出され、沢山の反対署名が集まりそれは却下されました。

1898年、アメリカ議会で合同決議が通りました。これを契機にパールハーバーは軍用としても使用されるようになりました。

1900年、沖縄から移民が到着したその年、ハワイはアメリカの領地になりました。

この後プランテーションはどんどん土地を広げていきます。
そしてパールハーバー以外でも、オアフ島の25%の土地が軍事用施設としてアメリカへ接収されていきました。ダイアモンドヘッドは砦として利用され、トンネルが掘られました。他の島も然りであり、カウアイのモオモミは今でも米軍の軍事訓練施設です。第二次世界大戦からはカホオラウェ島がまるごと演習射撃の的として利用されました。

そして1941年の真珠湾攻撃です。

そして今もパールハーバーは、アメリカ軍の利用する現役の軍港です。
今年発行された「観光コースでないハワイ」によると、現在ハワイにある軍事施設は152箇所。その面積は、ハワイ諸島全体の5.7%、オアフでは22.4%を占めている」といいます。また、オアフの主要な道路はまるで各軍事施設をつなぐように作られているようにみえます。


繰り返しますが、全ては終わってしまった過去の記憶ではありません。
今も続く戦争や占領を維持する場所でもあります。

長々と書きましたが、これらのことが私の思い出す「パールハーバー」なのです。


*参考文献*
高橋真樹『観光コースでないハワイ』高文研、2011年
もう少しハワイについて知りたい方にオススメの一冊です。

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