2012/02/20

「生活」と「観光」の空間

人が変われば前提が変わる、常識も目の付け所も変わる。
自分の前提と違う何かが共有されている空間ってなんだか居心地が悪いものだ。

ということで今日はあるレクチャーをたまらず基調講演だけで飛び出してきてしまった。
テーマはずばり「地域の<宝>を活かした観光とまちづくり/島おこし」であった。


最初に「何の資源もない島でやっていける産業は観光くらいでしょう」みたいな前提から入っていたので、<宝>って観光商品化できる<資源>のことなんだろうなあっていう前提が共有されていたわけですよね。産業ってイコール金になるってことですよね。いやあ、<宝>ってどういう存在なんでしょうか。

基調講演のサブタイトルは『「観光地」と「生活空間」の両立は可能か」興味深いですよね。つまりはゾーニングの話。観光のための土地と人々の生活のための土地をどう区分けるのか。
話者は観光地理学の教授らしく、ケーススタディとして4つの島を紹介してくれました。
屋久島と、瀬戸内海に浮かぶ島2つ、あとドイツの離島。
ドイツがいかに再開発時に制限を設けていたのかは興味深かった。戦前も100年以上観光地であったこの島は、統一される90年までは東ドイツの管轄だったので、大規模な開発はなかったんですね。だから統一されてから開発が本格的に始まるんだけど、その時にはもう既に環境コンシャスな国だったわけだから、ビーチを区切らないとか、建物が直接海岸につながっていてはいけないとか、自然海岸を守る細かなポリシーが決められていた。計画的な観光地がうまく機能している例だといえるでしょう。

ほかの日本の例は、なんだか観光地になるはずじゃなかった土地が人がいっぱい来るようになったもんで、どうにか対応に腐心しているといった感じ。屋久島が縄文杉だけに客が集まるもんで、どうにか分散しようとしているとか、計画都市以外の場所を埋めるように移住者が家を立てているので手がつけられないとかいう話は面白かった。移住ってのは、一種のフロンティア思想的なところがあるんでしょうかね。自分だけの楽園をどこかの土地でつくりだす。でも、その(地理的・社会的)コミュニティにはなかなか親和しない。最近は、土地の人々のほうにも歩み寄る人もいるんでしょうが、屋久島の例はそうではなかったみたい。

なぜなのか。※ここからは私の感想です
理由はもうひとつの前提の話。その前提は、「観光地」が日常のリアリティ=「生活」の空間と乖離している必要性。そしてそのために、「生活」の空間と「観光」の空間は区分けされている必要があるわけだ。
まあ、わからない話ではない。
だけどさ、そこに住んでいる人々の「生活」はそんなに忌避される必要があるわけ?
ここで前提とされている生活は「近代的」な彼らの「日常」に非常に近いものとして想像されているんですね。だから、避けたい。
そうでない「現地人」の「生活」は、また「独自性」のある、「非日常的」なものとして「宝」と呼ばれ商品化されていくのでしょうか?そこに賛同し、その価値とそこに付随する面倒なものまで抱え込める人が、その(地理的・社会的)コミュニティに溶けこんでいこうとするのでしょうか?

だれが何を<宝>と呼んでいるのか?

元々バカンスの習慣に馴染んでいるヨーロッパ諸国の人が、「観光地」として土地を切り離すこと、またその土地をポリシーで守ることは合理的な気がする。
それと、何らかの理由や<資源>を見出されて観光地化された土地とを区切ることはなんだか違うのではないか。
そこは、元々その土地の人々の「生活」にとって、「宗教」にとって、大切な土地ではなかったのか?という疑問が浮かぶ場合もしばしばあるからだ。
充分に近代化された現在の人々の「生活」や「日常」に、土地性というのはもはや関係ないのかも知れない。
でも、それを考えなおし、土地とどう永く付き合っていくか、テレビでも、ラジオでも伝えきれない<何か>を、<宝>を知っていたいというのがその土地に住むものの思いであり一種の役割ではなかったのか?

そう考えるとき、近代化された<日常>との対比によってしか立ち現れない<宝>って何だろう。はたして、それは同時に、空間によって区切ることができるものなのであろうか。区切ることで売り渡してしまえる<宝>とは、誰のものなのであろうかと、疑問に思って仕方がない。

<島人ぬ宝>はどこにあるのだろう?誰のためにあるのだろう?


基調講演だけ聞いて、あとは県内で活動している機関・企業の事業報告だったので、レジュメだけもらって別のレクチャーに行っちゃったのである。ゆえに、これらの機関・企業がやっていることについては、あくまでも言及していません…。(那覇のまちま~いなんかについては、面白い取り組みだと思うと同時に、それを地元の人や観光客に関係なく商品化しないと学べない状況があるのねーと…。私たちが発見する<宝>も、他人の杓子定規を内在化/借りてきたものによらなければ、いいのに…とか、考えたりしているのだけど、これ、別のはなし)

2012/02/02

土地を旅する


おもわずツイッターに大量に投稿してしまったので、ツイートを補足しつつブログにまとめておこうと思う。

琉球大学「人の移動と文学」レクチャーシリーズ第五回の、谷啓次郎氏のお話から戻ってきた。
テーマは「旅を書くことを考える」。彼はブラジル、ハワイ、ニューメキシコ、ニュージーランドに住み、学び、様々な土地を旅してきた作家であり詩人だ。

 彼は各々の人のイメージする「世界」は、その人の生きてきた「場所」の地図=Strangeography(Strange+Geography)を通してしかはっきり浮かび上がってこないものだと説明する。それぞれの思う「世界」はまさにその人の「世界」での経験であり、他の誰も所有することはできない。旅は自分の「世界」を広げていく行為である。しかし、「旅」はまた彼にとって後ろ向きな記述しかできない、「徒労」だと表現する。なぜか。

現在の私たちは「世界」に関する様々な情報に触れている。そしてそれを避けることは難しい。その世界のある土地の情報は、先入観として私たちの心の地図の一部となっている。その心の地図を広げて、目の前の土地と照らし合わせたとき、いかにそのイメージが過大な期待で塗りつぶされているかを知る。これが彼の言う「徒労」だ。「うまい」旅人は行く先々に異質な、既存のイメージにはない独自のきらきらしたものを見いだせるが、彼は、いやほとんどの旅人は、それのできない「下手な」旅人だ。
彼の著作の朗読からは、ガイドやパンフレットにある風景を探しに行き、西洋的な価値で切り取られた「商品」のみを「見るもの」とし、そこに自らの顔をはめこむ「観光」を前提とした「旅」への嫌悪感があった。同時に、しかしその方法以外に土地との結びつきを見つけることの探しきれないやるせなさ が伝わってきた。

そんな旅の表面で救い取れないものはまさにその土地の深みである。
その土地でその土地で生まれ育った人々がいかに生きているかまた、生きていくべきであったのかは、現在の「商品」とイメージの「消費」を促す「観光」を基礎とした旅には埋もれ、客人が訪ねるだけではそうそう知り得ないものなのである。

彼のテーマは批判的な土着性とクレオール性がテーマだ。土地とともに生きていく術をそこから学び取り、伝えていくことが今からの文学に必要だというのである。文学なら、世界に充満する物語を塗り替えるような物語を提供できる可能性があるとおっしゃっていた。
 私も彼に賛成する。そしてそんな文学はすでに土着民が持っているはずなのではないか。
土地と共に生きる術や物語を伝える、それはネイティブの文学を研究するひとつの意義でもある。 それを言葉と共に掘り起こすのもまた大事だろうな。言葉が運ぶその話者たちの世界への意味付けははかりしれない。

話を聞くたびにどうしても我が沖縄をあてはめずにいられない。
沖縄に移住者が増える、税金優遇によって企業が増える、みたいなきっかけから、土地ってなんだろう(ここでやる必要性って何?)と考えていた。その土地(自然環境、生態系)との行き方を知っている人には土地ってすごい意味があるのだろう。しかし、逆に都市化・均一化していく中においてはその環境というのは経済的な要因にしか依らないのかもしれない。
彼は現在世界で混血、混住が進んでいるというが、それはあくまでも経済的要因からに過ぎないと断言した。お金を稼ぐために、人が集まる。その内部で階層が生れ様々な人々がいるようにみえるがしかし他のグローバル・シティと何ら変わりはない…といったことであると解釈した。あくまでも地球のシステムではなく、人間のシステムの中での話なのである。

土地との暮らし方を知らない人々は、それこそ何かあった時、ノアの方舟に乗れなかった人々として流されていくのかも知れない…とちょっと思った。ハワイの暮らしの根底に流れる アロハ・アイナの精神は、きっとそこでは勝ち残るのだろう。 それがまさに今の地球で、席巻してる物語の結末で、文学が訴えようとしていることなのかもしれない。土地とのコミュニケーションを無視した人々は、いったいどうなるのか、知ったこっちゃない。
また、一度その土地と生きる術を失った我々はどうその知を取り戻せるのだろうか? 例えばうちなーぐちを継承する中で、たんなる言葉だけではなく、その内包する知も共に受け継がれるかどうかは、大事な点となると思う。
その点で、ハワイの人々が音や文字としての言葉を復活させただけでなく、そこに流れる知や生き方まで復活させようとしていることは、実に意義あることだと改めて感じた。


このような視点は、今後沖縄の経済発展や開発やというか沖縄で生きるということや世界に出向くというような場面に関わってくるだろうと思う。切り口が違うと、また違ったリアリティに気付けるかもしれない。

土地と民族について考えるのも面白いだろう。たとえば、世界に散らばる(といわれる)ユダヤの民や華僑・華人たちは、それこそ資本主義のシステムの中で形成された「民族」なのではないか? 沖縄という土地を離れてなおウチナーンチュを主張する人々の民族性はどうあるのか?私たちが共有していると思っている価値は、その昔沖縄という土地で形成された知とは異なるものなのか、どのような価値が選び取られているのか。残っていくものが果たしてどの土地に生きても共有される普遍的な価値だと言えるのか…?あるいは、その土地に住み込むことになった人々は、その流儀に従わざるを得ないと言えるだろうか。


長くなったのでこの辺で終わりとするが、おそらく思考は止まらないだろう。
まだ多く挙げても沖縄、ハワイ、日本、アメリカ、オーストラリア、カナダ程度しか知らない私の世界は、どこまで広げることができるだろうか。その中で、いかに土地とともに暮らす人々に会えるのだろうか。下手な旅人なりに、またどこかへ行きたくなってきた。

2012/01/20

そつろん

あっという間に2012年になってしまった。今年ほど先の予定が見えない年は今までなかった。
それでも色々なものに手を出すことにはなると思うので、しばらくは好奇心のままに生きていこうと思う。(こんなことを言ったらある人に「若いなあ…」と言われた。20代の無鉄砲さはいつまで続くかな?)
卒論の提出も大学院のアプリケーションもすみ、無理なバイトをすっぱり辞めてすっかり生活に余裕ができた。新しいバイトも始めた。そろそろ新しい勉強を始めたい。英語の勉強もまた再開しようと思う。今は就活も公務員の勉強をするのにもなんだか気持ちが中途半端でしょうがない。大学院の結果が出るのが遅くて3月末なので、それまではモラトリアムを満喫することになるかもしれない。いや、なるんだろうなあ。自分はこの先何をして生きていくんだろう。


 卒論が終わったことで、なんとなーく大学生活が終わったような気がしている。卒論はまさにこの大学生活4年間の総まとめになった。社会学への入り口、英語を基礎にハワイでの留学経験、そしてそれらをまとめる作業。4年間の全てがつながっている。沢山の人に助けていただいた。思っていた以上に、なんだかものすごく内容以上に身の詰まった思い入れのある一作となってしまった。

 論全体にながれるテーマは「Who is Uchinanchu? (誰がうちなーんちゅ?)」である。これは先行文献としてかなりお世話になったウェスリー・ウエウンテンさんと、新垣誠さんによるダイアログにはじまる。三線が弾ける弾けない、美浜を知ってる知ってない、テビチは好きか、出身は、両親の出身はどこか…とどちらがより「うちなーんちゅらしい」かを争う滑稽な寸劇である。私の問題意識は、まさにここから始まった。私は三線が弾けないし、うちなーぐちもしゃべれない。だったらテレビに映る、ハワイや南米で三線を弾き民謡を歌う彼らの方が、よっぽどうちなーんちゅらしく見える。果たして、本当にそうなのだろうか。
 実際ハワイに行ってみると、そこで見られる沖縄文化はとてもお祭り的であることがわかる。でも、人々は真剣に沖縄を学ぼうとしている。組織運営や継承や伝統へのこだわりだのごちゃごちゃはあるけど、みんな「オキナワ」という何かに関わることで、楽しそうにやっている。
そんなオキナワンやコミュニティのメンバーを見て、留学生は自身にうちなーんちゅらしさを問いかける。でも、一方でお祭り的なオキナワ文化にも疑問をもつ。「あれ?自分が知ってる沖縄はこれだけじゃない。もっと複雑で、もっとごたごただ。でも、彼らは確かに自分に足りない沖縄を知ってる。
対話は言葉ではない形で繰り返されている。


 また、ハワイが沖縄出身の学生に与える影響も大きい。ハワイアン・ルネッサンス(ハワイの文化復興。ほとんどなくなりかけていたハワイの文化を、ハワイアンの人々は様々な活動によって取り戻していった。)の話は、うちなーぐちを喋れない、沖縄の文化を余り知らない、政治的な立場の低い沖縄にとって、ヒントをもたらすものであった。ハワイと沖縄は文化のみならず米軍基地、社会的地位、歴史、観光、経済など様々な面でまた沖縄と類似していることに気づくのだ。
 そんなハワイやハワイの「オキナワ」を見てきた学生たちは、自身の中の「沖縄」を見つめ直し、今の自分と自分をとりまく「沖縄」についてどーにかこーにかもっと良い未来を目指してがんばっている。誰がうちなーんちゅかなんて何で決めるの?そんなことはわからないけれど、自分の信じるうちなーの未来に向かって、みんながんばっている。

簡単に言うと、こんな話である。

 ハワイの「オキナワ」は世界中に散らばる「オキナワ」のひとかけらに過ぎないし、それも日々変わっていく。ただ、これまでに、ハワイで、ハワイのオキナワンの方々と出会い、今頑張っている方々について、その人達の背景みたいなものを伝えたかった。「外に出ないと沖縄はわからない」なんて言うが、外で何を見てきたのか?外に行けない人にも伝えたかった。

 以上私の卒論の内容をざっとまとめてみた。これは私の留学体験記でもある。同時に、ハワイに行った誰かの、沖縄の外に行っただれかの留学体験のエッセンスが詰まっている。

 わかったことは、「私たち」は、何が本当かわからないけど共通のものとして「オキナワ」を紡ぎ続けているということ。今の世代の「ウチナーンチュ」たちが、何を選びとり何を伝えて、どんな沖縄を創り上げていくのか、ずっと見ていたいというのが、専ら最近の私の好奇心の所在だ。

 ウチナーンチュ大会でできた事務局に関わりながら、常に問いかけている。世界のウチナーンチュはみんな同じじゃない。それぞれの土地にはそれぞれのウチナーンチュがいる。つながって、どうするか、なんで、つながるのか?何がうちなーで、何が自分をウチナーンチュたらしめるのか、これはいつでも自分が決めることなのだ。でも、他の「ウチナーンチュ」に出会ったら、そこでお互いの「オキナワ」の交換が始まり、その対話は永遠に続く。

 とりあえず「誰がうちなーんちゅよ?」という問いかけに対して、私は「We are Okinawan」という答えを出しておいた。とりあえずの漠然とした答えだ。でも今はそう言うことしかできないと思う。オキナワのルーツがあって、そのエスニシティを自分のバックグラウンドとして選ぶのは自由。あとは、いかに自身をウチナーンチュたらしめているか、考えていく。自分との対話も終わらない。
 これがとりあえずの結論である。



 先が見えないのも、自分の選択と自分以外の人の選択が組み合わさってどうなるかわからないのも、何事も同じという話なのかもしれない。

 ウチナーンチュ大会と沖縄を紡いでいくことについては、また改めて書こうと思う。

 


2011/12/08

Pearl Harborのおもいで#3

さて、パールハーバーから70年とは言うものの、パールハーバーはまだ存在し続けています。
そこは、真珠湾攻撃から太平洋戦争までのアメリカの記憶を保存する土地であると同時に、現在も多数の軍艦が停泊する現役の軍港でもあるのです。一度でもそこを訪れたことのある人は、持ち込む荷物が限られていること、写真をとることが禁じられた橋などを覚えていることでしょう。アリゾナ記念館は今も流れ出る船体の油を見せてくれるように、各博物館が現在も進む技術や米軍人への誇りを主張するように、その全ては終わってしまった過去の記憶ではありません。

「リメンバー・パールハーバー」と言われるとき、未来の人々は何を思い出すようになるのでしょうか。


さて、もうひとつだけ思い出してほしいことがあります。
それはパールハーバーという土地の歴史です。
元々、パールハーバーは、「プウロア」(長い丘)もしくは「ワイ モミ」(真珠の水)と呼ばれ、魚を飼う沼や神殿のある土地でした。話はハワイ王国が米国との間で揺れる1876年まで遡ります。

その頃ハワイの砂糖プランテーションは、他の国が砂糖を自給できるようになっていたため、市民戦争で砂糖が不足しているアメリカを唯一のマーケットとしていました。そのアメリカへの税金の優遇処置と引換えにパールハーバーを譲る条約を結ぶようアメリカに迫られ、ハワイ内の政情はこの条約の受諾可否で揺れていました。これはハワイ占領への第一歩だという訴えもあったようです。
結局1876年9月に1886年までという条件付きでこの条約を受け入れたのですが、実はこの約束の中には、パールハーバーの借用は含まれていなかったようです。(後に書き換えられたと聞いています)
またこの内容は結局プランテーションの持ち主である白人(主にアメリカ人)オーナーの利益になるものでした。
この後力をつけ始めた財界の人々により、当時のカラカウア政権は、武力によって米国よりの新しい憲法にむりやりサインさせられ、アメリカの傀儡政権になってしまいました。それでも王は世界をめぐり王国の存在をアピールし、イオラニ宮殿をつくり、ハワイの作り、また太平洋の島々と協力体制を築こうとしました。しかし王は病にかかり、サンフランシスコで「休養」の途中で帰らぬ人となってしまいました。
これが1891年です。それを継いだ最後の女王リリウオカラニも王国存続のための努力はしましたが、結果はみなさんが知っているとおりです。
その間、パールハーバーは、物流の拠点になっていました。

1896年、アメリカはスペインと、フィリピンで戦っていました。

1896年、ハワイのアメリカ統合の条約が出され、沢山の反対署名が集まりそれは却下されました。

1898年、アメリカ議会で合同決議が通りました。これを契機にパールハーバーは軍用としても使用されるようになりました。

1900年、沖縄から移民が到着したその年、ハワイはアメリカの領地になりました。

この後プランテーションはどんどん土地を広げていきます。
そしてパールハーバー以外でも、オアフ島の25%の土地が軍事用施設としてアメリカへ接収されていきました。ダイアモンドヘッドは砦として利用され、トンネルが掘られました。他の島も然りであり、カウアイのモオモミは今でも米軍の軍事訓練施設です。第二次世界大戦からはカホオラウェ島がまるごと演習射撃の的として利用されました。

そして1941年の真珠湾攻撃です。

そして今もパールハーバーは、アメリカ軍の利用する現役の軍港です。
今年発行された「観光コースでないハワイ」によると、現在ハワイにある軍事施設は152箇所。その面積は、ハワイ諸島全体の5.7%、オアフでは22.4%を占めている」といいます。また、オアフの主要な道路はまるで各軍事施設をつなぐように作られているようにみえます。


繰り返しますが、全ては終わってしまった過去の記憶ではありません。
今も続く戦争や占領を維持する場所でもあります。

長々と書きましたが、これらのことが私の思い出す「パールハーバー」なのです。


*参考文献*
高橋真樹『観光コースでないハワイ』高文研、2011年
もう少しハワイについて知りたい方にオススメの一冊です。

2011/12/07

Pearl Heaverのおもいで #2

私の二度目の真珠湾訪問は、2011年2月24日に行われた"After Dark in the Park- Celebrating the Nisei Legacy" という日系二世兵士の展示ができたこと、また彼らのエピソードを集めたDVDがで
きたことの記念イベントのようなものでした。

最初に来たときに工事していたのはこのブースと、アリゾナ記念館に入る前の映像を展示するシアターだったようです。
二世兵士に関する展示がある館の入り口は左の写真のようになっています。

イベントの内容は、二世兵士たちの戦争体験を、プロの語り部さんが公演するというものでした。
語られたのは、ハワイで生れ、しかし教育の関係で沖縄に戻り、沖縄に残り神風特攻隊に志願した兵士の話、開戦直前にハワイに戻り米軍に従事し、沖縄戦で住民に投降を呼びかけた兵士の話など。また第二次世界大戦下のヨーロッパで、難民に向けて大量にビザを発給した杉原千畝の話もありました。後方のスクリーンにはずっと当時の彼らの写真がスライドショーで表示されていました。

語り部さんがまた感情の表現のうまい方で、時には滑稽に、時には真剣に、時には痛々しくそれぞれのエピソードを表現してくださいました。ほぼ目の前にいた私は公演中ずっとちむわさわさーしっぱなし。色んな感情がつぎつぎと入ってきて、ちょっと疲れてしまいました。
エピソードの根底には、彼らがアメリカ人としていかに戦争に貢献したかというテーマが流れていたように思います。442部隊で活躍した話はもちろん、米軍への志願の動機は、「日本人」としての差別のなかでいかに自身が「アメリカ人」として貢献できるか、認められるのかを考えた結果、ということが協調されています。

彼らは、パールハーバーの文脈においては、差別という逆境の中で見事「アメリカ人」としての職務を果たした「ヒーロー」達なのです。これは展示の内容にも言えることだと思います。その意図は、おそらく彼らの名誉回復なのでしょう。彼らは言われているような敵性日本人ではない、立派に当時の敵国帝国ジャパンに果敢に立ち向かった英雄のひとりなのです。杉原千畝のエピソードも、ナチスからユダヤ人を救った存在としてまた敵性日本人のステレオタイプを覆す働きをなしているのかもしれません。

また、これらとは対照的に、神風特攻隊に志願した方はその内情を知らずなんとなくであった、というように表現されていたのが印象に残っています。(この演技は非常に滑稽な様子でした)
そして本人の語らない「体験談」の異様さとの葛藤。どこまで脚色されているのだろう?と疑問に思うような「演技」でもあったのですが、これらの話の元になった経験をした方々も会場にいらしていたので、おそらく誇張されてあるであろう表現には問題はないのでしょう。
というより、実際彼らは「アメリカ人」なのですし、このような説明のされかたはむしろ彼らにとっても名誉なのかもしれません。
帰りに寄ったパールシティにある
創作沖縄料理店のあんだぎー。
中にはソーキが入っていた。
うーん、テイストオブハワイのオキナワ

講演後に何人かの二世の方々とお話をさせていただきました。
彼らは私が沖縄出身だと知ると、昔の自分の住んでいた地域や、ハワイで自身が組織した沖縄系人のグループのことについてなどお話してくださいました。このパフォーマンスを受けてのお話も、当時は本当に大変だったというような調子でお話されていました。最後に退室なさる際、奥様の手を引いて、「僕は妻を大事にするよ。だってアメリカ人だからね」と去って行かれたその言葉は、冗談と取ればよいのかどうか戸惑ってしまいました。

日系二世の話をする際、彼らの受けた教育によって彼らを分けることがあります。
ひとつは米国で生まれ、大日本帝国下の沖縄や日本で教育を受け、海外に帰った帰米二世、もうひとつは、日本学校に通っていたとしてもずっと米国で生活している二世です。
ちなみに、上に書いたように「自分はアメリカ人だから」とおっしゃっていた方は、ずっとハワイにいらした方です。
教育の違いが個人の人生や生きざまにどう影響をもたらすのか、二世について研究されている方々の気持ちが分かるような気がしました。

このイベントで披露されたパフォーマンスは、Treasure: Okinawan Memories of WWII」という名前でDVD化されているようです。どこから出ているかはわかりませんが、収益はHUOAの沖縄プラザ建設への資金になるようだったので、HUOAに問い合わせると手に入るかと思います。また、英語でよければHawaii Nisei Storyというサイトでも沢山のエピソードを読むことができます。

3度目に展示を見るために訪れた時もこれらの印象はかわらず同じでした。
二世兵士もまた、真珠湾の形作るアメリカの物語の中に収められています。

次の記事では、ハワイにとってのパールハーバーについて書きたいと思います。

Pearl Heaverのおもいで #1

7日沖縄タイムス朝刊の記事
[真珠湾70年 和解の千羽鶴 県系人寄贈] 
アリゾナ記念館に、沖縄系の方々が中心に千羽鶴が送られたそうです。記事に出てくるシャーリーさんはパールハーバーの資料館に日系二世兵士の展示を作った方でもあります。


きょうで真珠湾攻撃から70年だそうです。
真珠湾には、三回行きました。
1回目は友達と一緒に、どんなものか見てみたくて。
2回目は日系二世兵士の展示ができた記念のイベントに誘われて。
3回目はその展示をちゃんと見るために。


真珠湾は、唯一私がハワイの中で強固な「アメリカ」の存在を感じたところでした。
そこはまさしく兵士たちへの哀愁と国への誇りが上手く噛み合わされ演出した領域です。
沈没したアリゾナの上に発つモニュメントに行く前にまず、ビデオを鑑賞しその攻撃と犠牲の様子、歴史を知ることとなります。その後、暗い映写室からまぶしく静かな乗船場へと静かに案内されます。
沈没した戦艦アリゾナの真上にたつアリゾナ記念館では、未だ船体から流れ出る油を見ることができ、その連ねられた名前の多さに圧倒されます。日本人が訪ねて多少辟易するのは、ここで感じる些かの加害者意識からなのでしょうか。


アリゾナ記念館まではチケットをとれば無料で行くことができます。この前に建っている2011年2月にリニューアルした資料館も無料で観覧でき、この中に日系二世兵士の展示も設置されています。
他に潜水艦ボウフィン、降伏文書の調印が行われたミズーリとその船内、展示を見ることができます。
パシフィック・アビエーション・ミュージアムという飛行機に特化したアミューズメント的印象を受ける館もあります。


私の場合、1回目は潜水艦ボウフィンとミズーリまで行ってみました。
どちらも当時の船員たちの暮らしの様子などが再現されています。
またボウフィンは船体の目の前、ミズーリは艦内に資料館があり、その歴史などを知ることができます。
ミズーリは各所に案内役の方がいるので質問に答えてくれ、またツアー客への説明を盗み聞きすることもできます。
どちらも沖縄戦でも「活躍」した館です。ボウフィンの船体には、彼(彼女?)が沈めた日本の船の数が日の丸の数で誇らしげに表されています。また資料館では同じように沈めた船の数を国旗で表した旗がありました。彼らの戦果の証なんですね。
ミズーリは激戦のさなか応援として沖縄に寄ったのち神戸や東京へ向かい降伏文書の調印式を行った経緯を知りました。
かつて艦砲射撃の一部だった船が、日本との戦争集結の地となり、その船内に私がいる、ととても妙な気持ちになりました。


ボウフィン博物館の展示の後半は、いかに現在の潜水技術が進んでいるのかの説明でした。
そこで私の目を捉えたのは「しんかい2000」です。深海の様々な事象を研究することに活躍している船で、確かに最先端の技術であることは確かでしょう。しかし日本の現代の技術がこのような文脈で、しかも展示の一番最後に置かれていることは衝撃的でした。


案外この話は長くなりそうです。
2回目と「真珠湾」自体の話を、また分けて書いていこうと思います。



2011/10/27

Let it be

 As a starter for write a long essays again, I just came up with the idea to write a blog.
What I am doing now is essays for application. Yes, to apply for graduate school of UH.
I've been keep saying that I want to make my study more practical. That might be a great frustration every humanity major student confront with. Yet since I could conclude my original research question in the field of sociology and ethnic studies, so I assume I can move on to another phase. My challenge is make my research more practical and solve one more question or problem that I could not answer in this four years. That is about future, of Okinawa, and life of every people who is living in Okinawa.
 Well, you may ask me how come I dwell on Okinawa that much. That is because I born and raised here, supported by many people or institutions, I have acknowledged many internal/external conflicts ,and I understand how those people related to me loves life in or land of Okinawa. There must be much better, more clever way to make a living in a way of adapted in community based on the lands and cultures. I desired to work toward it. Then what is that? I know this is such a big question!
 I don't really think there is another golden resolution for all. Perhaps what I'm trying to do is meditate those people and let each knowledge link. I know many people has each various specialties, and I believe we can make situation better if those specialists would collaborate together. It requires mutual understanding, and communication.
 These are why I try to study more. I study economics with historical backgrounds and relationship with politics to understand how current situation has shaped. I study plannings to make it practical in the future with perspectives with community and cultural lifestyle. Through these studies, I want to be a person who can explain why we have such difficulties and clear the causes, handle knowledge from various aspects, share and lead a reasonable resolution.